(この記事は上↑の話から始まってます)
あれはいつごろでしたかね。
まあ、10年近く前のことですが、依頼された翻訳案件がオステオパシーに関してだったんです。
もちろんその時のオステオパシーに関する知識はゼロです。
そして書かれている内容や文書中にちょこちょこ使われていた写真が、当時の雰囲気にあってなさそうな古めかしいもので、なんじゃこりゃという「怪しい」イメージを持ちながら読み進めたのを覚えています。
施術ベッドに横たわったり座ったりしている人に白衣を着た人がいろいろな技をかけているような写真があるわけです。
その様子は整体やカイロプラクティックを連想させました。
ぼくよりも一回り近く上の上司は内容をまったく信用していない様子でしたが、ぼくは読んでいてなるほどなあと感心しておりました。
そしてその翻訳にあたりいきなり知らない単語が出てくるわけです。
筋膜
オステオパシーにおいての主人公はおそらく"fascia"ですね。
これを聞いたことある人はおそらくその道の方ぐらいじゃないですか。
日本語では「筋膜」といいますが、日本語できいても知っている人はかなり少ないんじゃないでしょうか。
翻訳していた文書のいたるところに出てくるので、これを知らずに訳すことはできないので調べました。
調べていてだんだんイメージが膨らんで行ったものをアウトプットしてみるとこんなかんじになります。
スーパーで売ってる鶏肉を想像してみてください。鶏肉ってある程度筋肉のブロックでまとまっていますよね。それらを引きはがそうとするとそれらが薄い膜で繋がっているのがわかるかと思います。
その膜が筋膜だと思われます。
筋膜は人間にもあり、何も筋肉周りだけではなく体中に張り巡らされており、すべてがその筋膜で繋がっているらしいんです。
その事実が人間の体を一つの組織(ユニット)として捉える元となっています。
・・・と解釈しております。
動脈のルール?すばらしい?なんか変
オステオパシーは、アンドリュー・テイラー・スティル博士によって、1874年(明治7年)にアメリカのミズーリ州で徒手療法として発表されました。
そのスティル博士の言葉としてよく引用される言葉があります。
”The rule of the artery is supreme."
さて、オステオパシーのことを調べていてよく見かけるこの言葉がしばしば
「動脈のルールはすばらしい」
と訳されているんです。
違和感を覚えつつも、そのうちわかるだろうと期待しながら読み進め、オステオパシーとは何ぞやということを理解しながら訳していったんですね。
そして、かなりの分量を訳し終わった後、度々顔を出すこのセンテンスの訳は、当たらずと言えども遠からず的なもので、おそらく今まで残ってきているのではないかと思い始めました。
主観 対 客観
そしてまず、引っかかったのが「すばらしい」というところ。
supremeという単語は、最高裁判所の「最高」にあたる単語です。
これを「すばらしい」と訳しているのですが、ここでは「ルール」が「すばらしい」という「すげー!」「最高やん!」という感覚的に上位にあるという意味で使っているのでしょうか。そうではないと思ったんですね。
もしも、スティール博士が主観や感覚的に言うなら、great, wonderfulという単語を使うと思ったんです。
まあ、少し重々しく表現しようとしたのかな?とも思えるけど、supremeはやはり、客観的に権威を持って頂点にいるという意味で使うものだと思うんです。
次に「ルール」です。
体を治めているのは?
これには言わずと知れた「規則」という意味があります。
なので、この「動脈のルール」というものがどういうものかわかりませんが、それが何にも優先されるという意味になると思うんです。
そうなると「動脈のルール」ってどんなん?って気になりますよね。医学の専門的なルールがあるのかなと調べたんです。
しかし、どこをどう調べてもぼくにはその「動脈のルール」を見つけられなかったんです。
そうなると「rule=規則」という前提が間違っていると考えざるを得ません。
では何か?
ruleには「支配」「統治」という意味もあります。
王政時代などで「王様による統治」というときの「支配」です。
そう考えるとsupremeと合わせて、
「動脈による支配」=「絶対(最高)」
だというものだと考えられます。
「動脈が支配する」ってどういうこと?
って思うかもしれませんが、ぼくはその後、曲がりなりにもオステオパシーについての知識を得ていくにしたがって、スティール博士が表現しようとしたことをうっすらと想像できるようになってきました。
それは血液(体液)の循環を最優先に健康な状態に保つことが身体の健康を維持することに最も重要なことだということではないかということで、ぼくは一人で納得しました。
しかし、当時、The rule of the artery is supreme.の対訳は「動脈のルールは…」というもの以外、ネットではぼくは見つけられませんでした。
なので、文書の表現の統一性も考えて、そのセンテンスが現れるたび、その訳を充てていましたが、五月雨式にそれ以前に納品した訳文に対するコメントとして考え直した方がいいかもしれないということを添えた記憶があります。
オステオパシーのホメオスタシス的思考
長々と翻訳における奮闘記ぽいものを書いてしまいましたが、オステオパシーでは筋膜が身体の各パーツをつないでいて、そこを流れる体液を滞らせることなく維持して自然治癒力を高めるという考え方がベースにあるのです。
それで、からだ中のさまざまな個所にある筋膜の滞りを取り除く施術方法がいろいろ見出されていったわけです。
いずれにせよですね、ぼくはここでオステオパシーについて深く語るつもりはありません。それだけの知識もありません。ただ当時翻訳しながらその考え方には深く共感したんです。
興味がある方は、オステオパシー協会とかがあるので調べてみてください。
気を送るとは?
前回の記事でレイキや気功で気を送るってどういうことかと問いかけたと思いますが、その答えがここにあります。
オステオパシーで言うと血液などの体液を循環させることがとても重要なのと同様、気功やレイキでは「気」を循環させるということがホメオスタシスにおいて重要な役割になるんです。
施術者は、手を頭に当てて気を頭から足の方へ流し込むのですが、施術者自身は地球や宇宙から気を得て流し込むポンプのようなイメージだそうです。
その「気」って何?・・・そこはここでは説明することは止めておきましょう。
カイロプラクティックとの比較
次にカイロプラクティックですが、これも筋骨格系の歪みを整えることで、疾患に対応するというものです。
やはり解剖学などをもとに、病気(症状)などの根本(原因)を探し、骨の歪みなどで圧迫されたりして閉塞されていた神経経路を開放するような施術で、体に回復能力を与えるというもので似ていると思います。
すべては自然治癒力の増強
病気は病院で、薬や放射線で取り除くという考え方とはかなり違い、自分に備わった力が治すという方向性が、レイキにせよオステオパシーにせよカイロプラクティックにせよ共通してあると思うんですね。
そしてそのベースにある各々の哲学が若干違う。
ぼくの場合はオステオパシーというものをいわば無理やり勉強する羽目になった?ために知ることができました。そこから気功やレイキという力も問題なく信じることができました。
西洋ではその地位は確立されつつありますが、日本では特にレイキやオステオパシーはほとんど市民権を得てないような医学分野だと思いますがいかがでしょうか。
そういう状況では、何の外的圧力なしに自分から知ろうとすることは難しいかもしれません。
でも、だからといって怪しいものではないと思うんですね。目に見えない哲学を上辺だけ聞くと少なからず怪しく感じてしまうのは仕方ないことかなと思います。
西洋医学に限界を感じてからそのアプローチを試みてもいいとは思いますが、少しずつでも知識は蓄えて行くのがおススメです。
先日のリンパ腫やリンパ浮腫は、いずれも体内を巡るリンパ液の問題ですから方向性はぴったりに思うのは素人だからでしょうか。
オステオパシーやカイロプラクティックは体を曲げたり捻ったり押したりして施術します。
気功やレイキは手をかざすだけというまさに究極の「手当」です。
いずれも施術が終わったときの体の温かみは気が体内を活発に流れ始めた感覚で、一縷の希望や心の平安を得ることができると思います。
少しでも興味が沸いたら、是非、どのようなものか自らの手で調べて、確認して実行してもらえたらと思います。