
英語の学習者の中でも、助動詞が苦手な人ってどれぐらいいるんですかね?
ぼくは初めの頃から(つまり中学生の頃から)助動詞について特に苦手意識を持った記憶はないのですが、慢性的な扱いにくさをちょっ〜とだけ感じながら、ここ最近まで来ていました。
扱いにくさというより、納得のしにくさというんですかね、運用する上ではさほど問題にはならないけど、文法的な説明を自信を持ってできないモヤッと感覚がずっとありました。
例えば
He may arrive in Tokyo today.
といえば、
「彼は今日、東京に到着するかもしれない。」
ですが、
*He might arrive in Tokyo yesterday.
といっても
「彼は昨日、東京に到着したかもしれない。」
とはならないうえ、正しくもない文章ですよね。
過去形を使ってるのに意味が時間的に過去にならないという時制を無視したような扱い方の説明ができないことにモヤついていたのです。
今となっては、感覚的にそういうもんだとなりますが、助動詞を覚えたてのころは、意味わからん状態だったのを覚えてます。
ただひたすら覚えようとして、覚えましたが英語が苦手な人の中には、ずっとその感覚が残っている人もいることでしょう。
そんな慢性的助動詞文法放ったらかし症にやっとメスを入れてくれた"ドクター"が現れたのです。
そして、このモヤっと感の根はかなり深いところにまで延びていることがわかりました。
その方を紹介したいと思います。
イングリッシュドクター
西澤ロイ"先生"です。
まあ、そこまで気を遣う必要はないと思いますが、もちろん彼は本当の医師ではありません。
何かの博士号を持っているわけでもないようです。
英語ができない人が抱える状況を病気になぞらえて、その「英語病」を処置するブラックジャックのような方とでもいうんでしょうかね。
英語に悩む学習者が陥っている状況にこういった「英語疾患名」を命名し、その解決の糸口となる解説を処方箋として提供しているイングリッシュドクターを営んでいる方です。
彼が命名している病名や症状名にはこういったものがあります。
- 重箱コーナー病
- ジパング症候群
- ウノミ―(暗記病)
- キャッチボール症候群
- もやしボディー症
- 解きまくり症候群
- 推理リスニング症
- ガリ勉症候群
- 悪銭湯イイ!加減病
- TOEICテクニック熱
- サイレント学習症
- 疑問ネグレクト症
- リピートプラクティス欠乏症
- 英語deつぶやかず症候群
- 永遠のスーパーサブ症
- ボリューム潤沢伸びしろ症
- ド根性スタディ症
- エスカレーター学習症
などなど…
基本的に彼は、勉強しても英語が話せない、使えない「沼」にハマった学習者が主なるターゲットだと思うので、ぼくはそう言う意味では西澤さんの患者ではありません。
でも、彼のスタンスは「正しい」英語を教えるということではなく、言語学に基づいて「納得できる」解説をすることにあり、その説明には感銘を受けるものがあります。
ロイ先生のYouTube動画を観るようになった経緯は忘れてしまいましたが、そのキャラ作りの怪しさとはミスマッチな物腰の低さというか、目立ちたがり屋ではないオーラに惹かれたことは覚えています。
そして、言語学を基盤にした分析や、言語習得を文法的な正確性ではなく、その運用能力の上達に定めている点も共鳴できたことも、見続けてしまっている理由の一つですね。
まあ、そんなこんなで、先生のYouTube動画は、アラカルト的にそれぞれ20分前後で問題を説明されているので見易く、取り敢えず初めから観ていたら、ある時、この問題が溶解したのです。
上でも書きましたが、ぼくが長いこと患っていた英語疾患は助動詞についてで、具体的にはその時制の捉え方です。
西澤さんも助動詞に関して多く質問を受けているようで、動画も複数あげています。
意味を考えて使っていく分には、そんなにややこしいことはないと思うのですが、助「動詞」という名前で動詞っぽく、現在形や過去形があるくせに、意味としては全く時制を無視したように運用することにずっと惑わされてきました。
そしてその説明が十分にされているものを見たことがありませんでした。
二段階の理解
この疾患を解決するにあたり、ドクターロイのいくつかの動画が参考になりました。
いくつかのテーマが絡んでいるので一筋縄ではいかなかったんですね。
順に説明していこうと思います。
youtu.be
動詞の時制の本質
まず、動詞が時制を持つという意味の本当の理解です。
過去に記事にしたこともありますが、当然と言えば当然すぎることだからなのか、その頃まで特に気にしなかったテーマです。
英語の時制を持った動詞は事実を表すということ。
現在の事実や過去の事実です。
事実だと「表明している」と言った方がいいでしょうか。
と言うのは、その内容が本当に事実であることを言い表しているのではなく、発言者があることを事実だと認識していることを表しており、もしもそれが事実ではなかったら、その発言者は単にウソを言っているという意味になるという理屈だからです。
例えば、現在形でのeatやwatchesなどを使った文章は、その内容の真実性は問題ではなく、文章の主語が普段から食べているとか普段から見ていることを事実だと発言者が認識していることを表現しているのです。
ateやwatched と言えば、過去に食べたり観た事実があると認識していることを表します。
逆に、時制のない動詞、つまり原形の動詞は、事実を表しません。
英語の動詞に未来時制としての活用形がないことがその現れなのです。
そこで「未来のことを表現するには助動詞のwill を使う」と習うわけです。
例えば
I will do it.
のようにwillを使いますが、doは原形ですよね。
未来のことはまだ実現していないわけなので、発話時点で事実だと言えないからです。
でもdo する「意志(will)」があるのは事実だということです。
こういった概念ってわかった気になっていて、実際にはわかってない人、結構いるんじゃないですか?
この概念は助動詞の理解に限らずいろいろな文法の躓きから立ち直るヒントになっています。
助動詞が表すこと
次に、助動詞ですが、言語学的には、「法助動詞」が正式な用語のようです。
まあ、そんなことはどうでもよく、まず助動詞が表すことは何かを考えます。
助動詞には言わずと知れたcan、will、may、mustなどがあります。
これらは「できる」とか、「する意志がある」とか、「してもいい」「かもしれない」「しなければならない」という意味がありますが、これらが表すことは専門用語で「心的態度」と言うそうです。
心的態度とは、話者の心の持ちようのことで、助動詞は、話し手がある出来事や物事をどのような心持ちで捉えているのかを明示する単語とのことです。
訳を比較してみればなるほどです。
つまり「助」動詞って動詞をそういった心的な、心持ちを補助(補足)する単語という立ち位置なんですね。
具体的には、「予想」とか「願い」「意図」や「許可」を表現します。
そして現在の心持ちと強く結びついていています。
少し脱線しますが、ロイ先生は、助動詞が表す意味には2面性があり、それに対する「コア」となるイメージも紹介しています。
言語感覚がある人は無意識のうちにそれを感じているため、問題なく使えるのでしょう。
助動詞のコアと2面性
- will:高い確率・可能性でそうなる
- can:可能性
- may:開かれたドア
- shall:神の意志
- must:絶対
ここでロイ先生は、これらの2面性を、訳し方や意味の違いから次のように説明しています。
WILL
表:「〜する(つもりだ)」という発言者の「意志」。
裏:高い確率で「〜である(になる)だろう」という発言者の「確信のある推量」。
CAN
表:「〜できる」という能力としての可能性。
裏:「〜かもしれない」という「可能性」
MAY
表:「〜するかも、しないかも」という選択の自由
裏:「〜しても、しなくてもよい」という許可
すでに覚えてしまっている身からすると、この辺りは軽く流せますが、そうでない人にとってはどうなんでしょうね。
助動詞の後に来る動詞が原形である意味
本流に戻って、次に注目すべき点は、上でも少し触れましたが、助動詞に続く動詞が、「原形」であるということです。
これが結構重要なんですが、ぼくらはそれを単なるルールとして習い、それが如何に論理的な構造であり、ルールであるかに関心を持つ人は少ないのではないでしょうか。
ここで再度注目したいことは、
「原形の動詞は事実を表しているわけではない」
ということです。
時制は助動詞が引き受けて、話者の主観を表明していると教わることもあると思いますが、少し上でも触れたように、細かく分解すると、「心持ち」があることは事実だけど、「動詞」に当たる動作は実現していないということです。
「〜だろう」とか「〜できる」「〜してもいいよ」という感情を抱いていることは事実なわけです。
これは次のような熟語でも似たようなことが言えます。
I want to eat sushi tonight.
という場合のeat が原形で、wantが時制を持っていて、現在形なので、「〜したい」という部分は事実です。
でも、食べ「たい」ということは、その時点では食べてませんよね。
実際にそのうち食べる保証もありません。
ということは実現してないのだから事実を表していないという考え方です。
そしてぼくが調べたところによると、心的態度である助動詞が現在形で表しているのは、現在の「評価」や「判断」ということになります。
つまり後続する動詞が原形である理由はこうです。
話し手が判断や評価を与えているできごと(助動詞の後ろの動詞)は、まだ現実時間に配置されていない動詞であるという構造になっているからです。
その動詞には時制が与えられていない、与えるわけにはいかないといえると思います。
単に時制化されていないできごと(動詞)の内容を表しているにすぎないのです。
つまり助動詞が伝える「意図」や「願い」、「予想」「許可」などを時間的な過去に持っていこうとするならば、「意図した」とか、「願った」「予想した」といった動詞を使わざるを得なくなるのです。
助動詞の時制
では、助動詞の概念を過去に持っていけないにもかかわらず、なぜ過去形があるのか。
willが未来を表すのなら、wouldは「未来の過去」?これはどういう意味になるのでしょうか。
最初に挙げていたモヤっと感のヌシは、こういった時制を無視したような助動詞の運用でした。
距離を置いた判断、別の言い方をすると、発言者か、「仮想」している、「丁寧」になっている、「控えめ」な表明をしている、ことを表しますよね。
それは時間とは関係ありません。
日本語で検証
少し考えてみてください。
例えば、mayやmightの日本語「かもしれない」を使って考えてみます。
上述の「東京に到着するかもしれない」を過去形にするとどうなりますか。
「彼は昨日、東京に到着するかもしれなかった」
と、しましょうか。
日本語として正しいですか。
自然に言うなら、
「彼は昨日、東京に到着するかもしれないと思っていた」
これでも「思っていた」のが誰かというのが曖昧なので、
「彼は昨日東京に到着するかもしれないと、私は思っていた」
このような日本語が妥当であり、これには「現在はそれを否定している」ことが暗示されています。
どういうことかというと、日本人が英語の過去形の部分を過去形にしようとしても、できないか、非常に特殊な状況を表すことになり、単純な過去形にシフトできないのです。
いやいや、
「彼は昨日、東京に到着したかもしれない」
が過去形の表現じゃないか。
当時のぼくはそんなふうに考えていたかもしれません。
それなら意味も通るし自然な文章です。
でもこれは、「到着した」という動詞の部分が過去形になっていて、かもしれないという助動詞に当たる部分は現在形のままじゃないですか。
つまり心的態度は現在のままです。
これは先ほどの文章の過去形の表現といえるのでしょうか。
mayをmightにすることは日本語の「かもしれない」を「かもしれなかった」とすることと違うんです。
だから、便宜的に助動詞を含む文章を過去形するには
助動詞+have+過去分詞
という型式を利用すると習いますが、実際には動詞の部分を過去シフトする方法を習うのであり、助動詞は過去形にしていないわけです。
特別なcould
そこへ持ってきてcouldに限っては、場合によってはそれだけで時間的な過去を表すこともあるのでややこしい。例えば
I could swim when I was five.
などと言えば、過去において能力があったことを表します。
過去を言い表せる理由が、「能力を表すcan は、心的態度とは言い難い」という見方があるからのようです。
そういう意味で例外、部分的に特別です。
たから、
I could swim across the river.
の場合、時間的な過去ではなく、仮想ですね。
「その時泳げた」といったように、一時の単発的な成功と言う意味にはならない。
それを表すには、
be able to swim
managed to swim
といった動詞を使う必要があるのです。
つまり助動詞の過去形は時間的な過去を表さない場合がほとんどなんです。
ほとんどの場合、時間は関係なくなります。
”助動詞病”の予防策
ここまで見てきたように、助動詞を動詞の一種と思わないこと、現在形対過去形を、一般動詞のそれと同一視しないことが重要です。
繰り返しになりますが、「心的態度」である助動詞を過去形にしても時間的には過去を表せず、距離を置いた発言者の判断である「仮想」、「丁寧」、「控えめ」を表すのが英語なのです。
つまり現在形と過去形で全く別の意味を表す単語として認識すること。
唯一、couldは一部特別であることを肝に銘じること、それがぼくが思う予防策です。
canもcouldも頻繁に使う単語なので、助動詞にも時制があるものだと思わせてしまう元凶だとぼくは思います。
惑わされてはいけません。
助動詞という慢性疾患と患者力
以上、慢性的な疑問の溶解のきっかけになったのは西澤先生の動画でした。
あとは、自分で言うのも何ですが、「患者力」で、本記事の後半部分は自分で調べた内容が多く含まれています。
調べて行くと、この沼はまだまだ底に達してないようですが、この辺でやめておきます。
「正解を求めるより、英語は納得することが大事」というロイ先生のように、この記事が「正解」とは言いませんが、これで「納得」できる人がいれば幸いかなという感じですね。
今回、この記事のせいで、さらにこんがらがってしまった方、ぜひともセカンドオピニオンを受診し患者力を発揮してください。
今回、肝心の自分が「寛解」したかというと、まだ長年の思考の癖があるので、まだ誤用することはありそうですが、セルフメンテナンスの術が増えたことは確かですね。
まあ、はっきり言って助動詞のこういう所が気になる人はあまりいないと思いますし、日常のコミュニケーションで必須の知識ではありませんが、ぼくは正しい英語を使いたい、日本語と同じくらい正しいがどうかを判断できるようになりたい気持ちがとても強いです。
そのために時制を正しく使えるようになることにとても興味があります。
今回、ぼくは助動詞の時間的な方向についてマニアックに考えてみましたが、西澤先生はもっと実用的な話もしていますので、気になる方は是非見てみてください。
DIYが好きな自分にとっては、新しい工具を手に入れたような高揚感を与えてくれたYouTuberの西澤ロイ、イングリッシュドクターのご紹介でした。