
少し前の助動詞の過去形の議論を深堀りしていたら、ちょっと深みに嵌ってしまいました。
言語学習をしていると、知らないうちに感覚的に分かった気になってくる言語感覚があると思います。
その感覚に対して、本を読んだり誰かから何かを聞いたりして新たに得たとしても(新たに気づいたくせに)、あたかも前から知っていたかのような反応をする人がいます。
例えばある情報に触れたとき、その情報はその時すでに知っていた内容でも、それを取り巻く内容や、情報に対する見方や角度、アプローチが今まで考えたことないものであれば、新しく感じたり、違う側面からの切り口や複数の点と点の繋ぎ方に独自性や斬新性など、そこに何らかの新鮮さを感じるものだと思うのです。
それを、実質的に切り口や、視点がその人にとって新しく、思いもよらなかったものにもかかわらず、ロクに詳細の確認せずに「まあ、そうだろうね」とか「そんなの当然じゃん」的な反応をする人もいます。
その人は「単に」言語化していなかっただけ故に、その内容自体は大したことないと思っているのかも知れませんが、言語化したり文字に起こすってことは、それだけで新たな価値を生み出していることだと思うんですよね。
それはもう「単に」とは言えない、誰かの気付きになる、点と点が繋がるかもしれないので、まとめることに意義があるはずです。
なので今回はある意味では、誰かさんにとっては、当たり前のように聞こえる、またはすでに当たり前のことかもしれませんが、仰々しく書いてみようと思います。
モダリティ
いきなりですが、モダリティという言葉を知ってますかね。
ぼくは数年前、外国人に日本語を教える仕事はどんなもんかなと色々調べていた時期がありました。
そんな時に出会った言葉で、それ以来ご無沙汰していました。
とはいえ、不思議なことに外国人が日本語を勉強するときに出現する言葉といっても、彼らの教科書には出てこないんですよ。
実生活においても目にしたり聞いたことがありません。
そんな言葉ですが、助動詞の過去形のことを調べていたときに、AIが使ったんです。
具体的には
モダリティとは何かというと、
「話し手が命題に対してどんな態度を取っているか」
を表す仕組みと定義されるようです。
ここで「命題」というこれまた小難しい用語が出てきますが、細かい事を抜きにして言えば「出来事」や「事実」を表した文のことで、例えば…
「雨が降っている」
「地震が起きる」
「私は今考えている」
「東京は日本の首都である」
のような文です。
これらだけでなく、例えば…
「すべての鳥は飛ぶ」
など、正しくない文も命題と言えます。
つまり、真偽が判断できるものです。
対して、命題ではないとされるものは、
「明日は晴れるだろう」(推量)
「犬はかわいい」(主観)
「このカレーはおいしい」(主観)
「ドアを閉めてください」(命令)
など客観的事実かどうかわからないものや人の気持ちが表れているような文です。
学者によっては意見が異なることもあるようですが、概してそんなところのようです。
こういった命題に対して「発言者が取る態度」とは、その内容がどの程度確かか / 必要か / 許されるか / 起こりうるか」といった現実との距離の評価を示す表現のことです。
簡単な例として挙げられるものは…
・〜かもしれない
・〜のはずだ
・〜でなければならない
・〜のようだ
・〜かな
など、その他多数ありますが、このように命題とモダリティの組み合わせで構成される文が多くあります。
命題を含まない文
では日々ぼくらが発話したり耳にする文にはどのようなものあるでしょうか。
平叙文、命令文・感動詞だけの文・挨拶文ぐらいが分かれば事足りるでしょう。
その中でも、命題ではない文…
-おはようございます。
-あっ!
-早く!
-ドアを閉めてください。
これら、挨拶文や感動詞だけの文は比較的短く独立性があるので、とにかく覚えることで身についていくように思います。
命令文の主語は常にYouなので、省略され、相手に働きかけたい言葉が動詞として先頭に出るので、文法といっても時制も絡まず比較的感覚的に理解しやすいのではないでしょうか。
命題ぐらいならついて行ける?
一方、平叙文には、「命題のみ」の文や、「命題+モダリティ」の文があるのですが、これらが学校英語の主役ですよね。
英作文とか、会話で表現するとき、モダリティを含まない命題だけの文章なら、語彙と文法を理解をがんばれば、ある程度処理できる人も多いかも知れません。
そして発話時に躓くときは、おそらくこのモダリティ付きの文章なのではないかというのが、ぼくの仮説です。
モダリティの処理
では実際モダリティをどう料理したらいいのか?
例えば、前述した
・〜かもしれない
・〜のはずだ
・〜でなければならない
というのは英語の場合、比較的認知度があると思いますが、might、must、shouldなどの助動詞で処理できます。
そして仮に、こういった英語での表現を知っていても、「なんか違う」と感じるときは、別の処理方法を知らない場合が多いのかも知れません。
つまり、日本人がよく言う「ニュアンスの違い」というやつで、細かい気持ちを表しているのがモダリティと関わっていると言えるでしょう。
因みに、モダリティは、日本語の場合、上の例のような文末表現として現れることが多いんです。
加えて、細かい事を言えば、
〜だね、〜よね
とか
〜よ
〜なわけだ
などもモダリティですが、それがあるなしで、感覚が違いますよね。
でも英語ではそれらの表現方法は文面だけでは処理できないことが多い、またはその表現は一つではないこともあるのです。
日本語のように軽く何かを付け足すだけで済まないところに苦戦するのです。
モダリティなしで話すことってありますか?
これが、英語アレルギーの人が感じるムズムズ感じゃないでしょうか。
つまり、普段から
「私は本を読みます」
「あなたはお昼ご飯を食べます」
といったような命題の文を発言することって少ないのではないかということです。
そのような発言がマッチするシチュエーションにはあまり出会うような気がしませんがどうでしょう。
なぜならこういう命題の文を発言しても、相手は「だからどうした?」と訊き返したくなるだろうなと感じるシーンが多いと思うからです。
こういう人にアレルギーが発症するのではないかと思っています。
逆に、こういう発言で乗り切れる、もしくはこういう発言に必要性を感じる人は、英語の勉強にそれほど困らない人なのではないかと思います。
で、これらの人の大きな違いとして、まず後者に該当する人は、自己紹介系というか、普遍的な内容を話したい、もしくはよく話す人で、前者のような人は、その場での個別な状況で、やり取りに必要になる内容を言いたい人なのではないでしょうか。
言い換えると、前提条件や現状の描写を一方的にしたい人、それに対して、旅行者など行きずりの人との一時的な会話を楽しみたい、もしくは自分が旅行者として人とのキャッチボールをしたい人というふうにも分けられるのではないかと思うのです。
後者の人はいいけど、前者の人が英会話をしたいと思って、勉強を始めると、まずは簡単な文章として前述のような文章を学ばされる。
でも、それは自分が言いたいことじゃない。
ちょっとしたニュアンスを加えたい…
しかし実際のところ、
〜だね
とかは付加疑問文などで言えなくもないですが、表現が露骨すぎるので、英語ではそのようなニュアンスはドロップしたり、イントネーションや顔の表情などで処理されることが多い。
そうなると、ちゃんとネイティブっぽいイントネーションや振る舞いをしないとさらに通じない。
結果、英語が遠のく…。
それが英語アレルギーのメカニズムなのではないかと思ったわけです。
さて、思い当たる人はいるでしょうか。
それとも、そんなわかりきったこと…と思われたら…
ゴメンね、ゴメンねぇ〜。




















