雑食思想の溜め池

生活していれば自然と湧き出て来る思いの数々。ここは、ぼくの中でゲシュタルト形成や拡張へ向けて流れ着いた、様々な興味の源泉からの思想が集う場所である・・・。と意気込んで始めたものの、だんだんとその色が薄くなってきました。

日本の伝統工芸品でマトリョーシカ効果を狙う

昨年、仕事上でポーランド人のカップルに出会いました。

女性のほうが、着物などの日本文化がとても好きで、ワーキングホリデーをしながら日本語も勉強しているとのことで、男性は同行者という感じです。

彼女は、簡単な文章なら読めるようですが、会話になると初級の教科書とは運用が変わることを感じてるので、そこを勉強したいけど、シャイな性格ゆえ会話の練習が難しいということでした。

そこで我が細君を紹介して日本語を教えていたわけですが、これがまたかなりのフィット感だったようで、とても馬が合って一緒に遊びに行くまでになったんです。

男性の方はというと、日本には興味があるけど日本語は別に、という感じで、勉強する気もないようでした。

ですので彼女とは英語と日本語で、彼とは専ら英語での会話でした。

彼はとても話好きでよくしゃべるけどとても思慮深く、礼儀正しく、相手に対する配慮もあってぼくも話していて心地よい人でした。

知り合った時期がちょうど参院選の時期だったこともあって、ぼくは特に男性の方と、会話だけでなくテキストでも政治談議(「談義」か?あえて「談議」としておこう)に花を咲かせていました。

贈り物の交換

ところがその男性は帰国しないといけなくなり参院選直後に帰国しました。

その数か月後、折角好きな仕事も見つけて楽しんでいたような女性のほうも彼らの事情で予定をかなり早めて帰国することが急に決まりました。

そこで、先日、帰国前に彼女を我が家に招待したんです。

その際、手が器用な彼女はいろいろなものを作るのが好きなだけでなく、上手でぼくらにそれぞれ手編みのショールと、ネックウォーマーをプレゼントしてくれました。

オリジナルのデザインで、この短い滞在期間にもかかわらず自作の贈り物に驚きました。

こちらからはと言うと、まずは、カミさんは、ディナーで家庭料理を振る舞いました。

加えて、普段からのお付き合いがあって、あれもこれもあげたい、でもスーツケースはおそらくいっぱいだろうから、持って帰れそうになければ送ればいいかとでも考えながら日本や御当地ものをミニマムに絞って用意していました。

プレゼントを2度おいしくしたい

ぼくとしても折角のお近づきの印として、何かを贈りたいとは思いながら、あまり彼女寄りのものもなあ、と思いつつも、かといって、彼の好みは知らないし…ということで、とりあえず日本的な物でニュートラルに捉えられるものがいいかなと思いました。

そこで選んだのは、ぼくが好きな工芸品である寄木細工の秘密箱でした。

こういうものですね。

寄木細工は樹木の種類が豊富な箱根ならではの、木々のそのままの自然な色を利用し発展した伝統工芸品です。

何かをきっかけにして目にした途端気に入り、購入したまま保管していたこの秘密箱を贈ることにしたんです。

この精密に削られ、多様な図形に貼り合わせられた幾何学模様を縁取る境界線で隠された切れ込みを使って、何度かスライドさせることでフタにロックを掛ける仕組みになっている、知恵の輪的な作品です。

これなら、これが彼女への贈り物になるし、次に彼女から彼へのプレゼントをあげるときの箱に使っても面白いんじゃないかという思いもありました。

そして、このポーランド人の子がこういった日本の伝統工芸品が好きだということは話に聞いて分かっていたので、これだけでもプレゼントとして十分成り立つとは思ったのですが、言うても「箱」です。

ただ単に「箱」を贈るだけじゃ芸がないなと思ってしまったんですね。

箱なんだったら、何か中に入れて2度楽しめたらいいかなと思ったんです。

騒ぐDIY精神

彼女はミニチュアのような「小さいもの」も好きだと聞いたことから、この箱の中に何かしらの世界を作りたいと、DIYの血が騒いでしまったのです。

そして、2度おいしいプレゼントにできるんじゃないかと思ったわけです。

時季的にクリスマスだからクリスマスをテーマにしようか?

いや、やはり日本のお土産なのだから、ここは日本的なもので統一したいと思いました。

そしてアイデアを考えて、あちらこちらとミニチュアグッズを売ってそうなお店に部品調達の下見に行きましたが、イメージやサイズが合うものがなかなか見つかりません。

何か合いそうなものを見つけては、その都度計画を変更し、それに合わせては探し、何バージョンか保留にしては検討し、また探索の繰り返し。

当日まで試行錯誤を繰り返しアイデアが固まってやっと仕入れ、何とか出来上がったのが、これです。

正面から見るとこんな感じ。

イデアのファイナライズに時間がかかり、仕事の合間に調達するタイミングも難しかったことから、部材を入手して施工するのがかなり押してしまい突貫工事となってしまったので、細かいところが結構雑になっているのが分かると思いますが、そういった詰めが甘いのがぼくの弱点です。

壁紙や家具などの内装は助手のChatGPTに作図してもらい、小物はSeriaやナチュラルキッチンでの仕入れに加え、鏡餅の四方紅や紙垂は普通紙に色を付けて、しめ縄はナプキンを捩って自作しました。

ハッキリ言って安いものの寄せ集めですが、主役はやはり「秘密箱」なので、壁紙や家具は両面テープで軽く貼り付け、披露が終わったら簡単に取り壊せることが前提で、それ故、あまりお金をかけたくないという思いがありました。

もう時間がなかったので、ここで完成として写真を撮ってふたをしましたが、何か足りない気がしてたんです。

そうだ、何かメッセージを入れよう!

よし、シンプルに『良いお年を』を入れよう。

さてどうやって入れよう?とまた、この期に及んで悩んでしまいました。

数分の末、この主役の右手に「良いお年を」と小さく書いたメッセージカードを握らせる(というか貼り付ける)ことにしました。

ドキドキの反応

さて、包装紙をいざ開封…。

秘密箱が現れたときは、ある程度期待していた反応でした。

よしよし…。

そして簡単に秘密箱の説明をして、取り敢えずぼくが開けてみせました。

初見でこれを開けるのはかなり難易度が高いので、開けるためにコロコロ回転させて、壁紙や畳が剥がれてしまうのを恐れたわけです。

まあ、最後の一手だけを残して手渡しました。

蓋が開いた時、言葉はなかったけど、その表情で喜んでくれてるのがわかりました。

ただ、ジッーとその小さな部屋を見つめていると思ったら顔が段々と赤くなって来るのです。

おっ、いい感触。

いや、良いどころではない反応でした。

ハタハタと手で顔を扇ぐフリをしながら二、三度軽く涙を拭ってましたので、この「作品」は彼女の琴線に触れることができたんだと思いました。

そして小さく「Thank you. Thank you. 」とぼくら二人に対して静かにお礼を言ってくれました。

最後の悔い

もちろんぼくらからも同様の言葉が返され、プレゼント交換は和やかに終わりました。

プレゼント交換は無事終わりましたが、ぼくは最後の最後まで焦っていたため、渡す前に再度開封しフタを開け、その最後の作業をし終わったら安心してか、「良いお年を」を持たせた後の証拠写真を撮るのを忘れていました。

こういうもののアイデアは、出るときは出るんですよね。

渡すまでにもっと時間があれば、本当は障子を開けられるようにして、そこにメッセージを入れるとか、フタの内側にメッセージを書けたかもとか。

イデアは突如降ってくる

これはクリスマス前に行われた招待ディナーパーティーにまつわる話でしたが、贈り物をそんな風に、かなりの労力を使って制作したわけで、今年の脳ミソは使い果たしてしまいました。

カミさんに対してのクリプレは例年通りで、サプライズは全くなく、申し訳ない思いもありますが、サプライズさせるのは難しいですよ。

アーティストなら、サプライズなアイデアを自分の意思で定期的に呼び寄せられるんでしょうね。

「良いお年を!」を守るという妄想

 

このシーズンになると、古き良きアメリカでは「メリークリスマス!」が挨拶の定番であったが、いつの日か「ハッピーホリデーズ!」がそれに取って代わったことを改めて思い出す。

今でも「メリークリスマス!」と言い合えるお互いの素性を知った仲であれば、そう言って挨拶するのは差し支えない。

ただ、互いが初対面であるお店やレストランでの店員‐お客さん間や公的な場面での挨拶では、「ハッピーホリデー!」というようになったというわけだ。

クリスチャンの気遣い

アメリカはキリスト教の国なので、普通にクリスマスを祝うが、移民の国でもある。

そこでキリスト教の人たちは、徐々に増えてきたキリスト教ではない宗教を信仰している人たちのことを気遣って、当たり前のように「メリークリスマス!」というのをやめてあげたわけだ。

ぼくら日本人からしたら、クリスマスはキリスト教信者でなくてもイベントの1つとみなして、そのように挨拶することに抵抗がなく、単にクリスマス時期の挨拶が増えたぐらいにしか感じてないと思う。

しかし、「メリークリスマス!」と言われたら返事に困るような他の宗教の人からしたら、この挨拶に対する困惑感がハンパなく強いのだろう。

だから一種のジェネリックタームでハッピーな気持ちを伝え合おうという「優しさ」から生まれた流れなのかもしれない。

でもこれは本当に「優しさ」からなのだろうか。

マイノリティーの本質

思うに、移民としてアメリカに渡る他宗教の人たちが多数いるとはいえ、「メリークリスマス!」というのが伝統の人たちのマジョリティーや体制を保つことができるという自信があるのではないか。

それは「ちょっとぐらい彼らが増えたって…」という余裕、または傲慢さがあって、上から目線的に彼らに居場所を与えている、と見ることはできないだろうか、ということだ。

ある情報によると、この新しい挨拶はマイノリティーからの苦情を回避するためという理由もあるようだ。

人種というのはマイノリティーでいるときは、自分たちが迫害されないように、と思っているかわからないが、「郷に入っては郷に従え」に則って、「郷」のしきたりを素直に受け入れているのであるが、コミュニティーができ、徐々にマイノリティー感が薄まり始めると、段々と自分たちの思いを主張し始めるのが常だ。

アメリカでは、そういった気配を感じて先手を打ったとも考えられそうだ。

日本人の配慮好き

しかし、日本のように特にそのマイノリティーの数がさほど増えていないのに、また、彼らがそんな主張をしているわけでもないのに彼らを慮って、こちらの習慣を遠慮したらどうなるだろうか。

日本人の中には、一度配慮に目覚めると、先手を打つように、つまり不都合の申し出がなくても相手の気持ちになってあげることを極端に進める「人種」が一定程度いて、ある程度、またはある面から考えるとその言い分がわかることがある。

ぼくは、数年前に日本で始まったハラール食の提供や、今日注目を浴び始めているイスラム教のモスク建設、土葬の許可が、今日の結果を招いているのではないかと懸念している。

特にモスクの建設や土葬は、国土的にスペースを割いているわけで文字通りに「侵食」していっている。

ハラール食の提供は、下手したら上の挨拶に見られるような文化の置き換えの前触れになりかねない。

もちろん門戸を開いているのは日本なのだから、どんどん入ってくる外国人を責めるのもどうかと思う。

しかしそういった外国人は概して遠慮のない人種の方が多い。配慮してという理由からではなく、上述の通り、苦情を言ってくることを懸念しての対策なのだとしたら、それは既に危険信号ではないか。

そんな苦情をいうような人種を無条件で迎えようという気持ちは、自ら災難を呼び込んでいるようなものだ。

現にマイノリティーでありながら郷の文化を無視して日本人が好まない異文化行為を決行している彼らに自制を期待することはあまりにもナイーブすぎるのだ。

歳神様を迎えられるか

日本で年の瀬に言う「良いお年をお迎えください」という挨拶は、掃除をしたりその年の清算をしたりして、来年の歳神様をお迎えするということに由来しているといわれている。

そうなると、歳神様という概念を含んだ慣習の挨拶に馴染めない人を勝手に慮って、別のフレーズを使うべきだとか言う上から目線を無意識に行っている日本人が出てきやしないかと心配になるのだ。

そして、そんな声が上がったもんなら、ただでさえ公道など好き勝手な場所で礼拝するような人は、おそらくそういった声に便乗して主張を始め、調子に乗って我が物顔で振る舞う可能性が高いと危惧するのである。

「情けは人の為ならず」というが、その精神を真正面から信じて実行していると足元をすくわれそうな気がしてならない。

この言葉は同じ文化を共有できる社会でしか成り立たないものだと思うのはマイノリティーの考え方だろうか。

LGBTQ 法案の罪

少し横路に逸れるが、これはLGBTQの法案の概念とも通じるところがあるのではないだろうか。

違うところがあるとしたら、LGBTQに該当する人々は、その勢力を伸ばそうとしている人はそれほどいないのではないかというところだ。

逆に「あまり気にしてくれるな」、「細々と個人で上手くやっていくから」と思っている人がマイノリティーの中のマジョリティーなのではないか。

今、それは横に置いておいて

日本は、単一民族国家であり、それぞれの人の所属する集団内でその人の意思とは別に期待される役回りや、年齢から「こうあるべき」という習慣が強い国で、ぼくはそれが好きではなかった。

しかし、こういった問題が浮上してきた今日では、そういった、かつて好きではなかった点が日本という国体を維持していると思えるようになってきた。

以前、書いたことであるが、英語の苦手意識も日本の国体を維持し、何とか滅亡から踏み止まらせている点ではないだろうか。

今、日本を訪れる外国人の最大の壁は言葉である。

これが取り払われたら彼らが手軽にできるようになることが激増する。

優しい日本人は、もしもその言語能力がもっと長けていたら、英語を公用語に追加してあげようと言いかねない。

言葉の壁が低い欧米の移民問題を見てみたら恐ろしくなる。

むやみやたらと、優しくなってはいけない。

「良いお年を!」の挨拶を、ちょっとした優しさから、万が一「グローバル的」なフレーズに置き換えられたら、それが蟻の一穴となって、後戻りできなくなるように思えるのは杞憂だろうか。

幸い、今の所そういった声は聞こえて来てないが、聞こえてきた時には、即座に対抗できるように普段から妄想だけはしておくのも国防の一助となるのではないだろうか。

みなさん忘れていませんか?EXPOのこと

今年の4月13日から先月10月13日まで開催していた関西大阪万博

みなさん行きましたか?

ぼくは行きませんでした。

なぜか?

開催に反対だったからです。

常に地盤沈下している大阪湾の産業廃棄物最終処分場である夢洲に世界中の人を呼び込むイベント会場を建設することに対して反対していたためです。

なぜ反対していたか?

ひとつは開催場所としての危険性のため。

もう一つがある特定の政治団体の利権と国防の観点からです。

開催場所としての危険性については多くの人が声を上げていたように、海底のゴミが生成するメタンガスによる爆発の危険性。

橋とトンネルのふたつしかない夢洲へのアクセス経路ゆえ、津波警報にどう対応できるのかという問題の未解決。

そして、期間終了後、跡地へカジノを建設すると言う案、そしてその推進団体に隣国が絡んでいることです。

結局、反対派の存在を無視するかのようにメディア報道がされ、本質的な問題山積のまま開幕。

お客様に罪はないと言わんばかりに、汚いところや危険な所にはフタがされ、多くの国民は舞台裏の大騒動を知らぬままもしくは、軽んじたまま無邪気に楽しんでいたわけです。

ここで言う問題点の一つに、工事費用未払い問題というのがあります。

11の海外パビリオン建設に関わった業者のうち30社以上が工事費用の未払いを訴えているそうです。

それに対して博覧会協会や大阪府は、民間同士のトラブルだとして、立替払いや、資金繰りの支援はできないというスタンスをとっているようなんですね。

それに輪を掛けるように、閉会後の今はパビリオンの解体工期の遅延が見込まれるという理由で支払いの拒否をしているということのようです。

ぼくら、一種の「外野」は、開催反対や開催後でも中止を求めていましたが叶うことがなく、外面的には大きな事故や事件もなく閉会した日を複雑な思いで迎えたわけです。

不謹慎ながらも、密かに、心の片隅では、夜中誰もいない会場が自然発火するとか、小さめの地震で小さめの津波が会場を襲うとか、特に人命被害が出ない形で被害が出たら、みなの考え方に影響を与えられるんじゃないかとか思ってしまっていたわけです。

だからここである種の敗北感があったわけですが、実際には戦いはまだ終わっていなかったんです。

当事者たちの戦いは、外野からは見えないところでまだ続いているのです。

それをこの動画で気づかされました。

youtu.be

正直言って、彼の訴えを完全には理解しきれていません。

というのもこのYouTuberさんサイドである建設業者の言い分が正しいのか、彼が主に相手取っている大阪府知事や博覧会協会の主張が正しいのかはわかりませんが、現在起こっている現象は非常に不公平感が漂っていて、そこには民間の問題だと言ってはいても国の威信をかけて行われたイベントに国が大きく関わっていたわけです。

もう一つ、あれだけ不可能だと言われていた工事をなぜ請け負ったんだという疑問があります。

どこも請け負わないでくれたらこの万博は成り立たず、開催できなかったんじゃないかと思えるからです。

それをどういう条件を提示されたのかわかりませんが、呑んで着手した。それも契約の内容をよく読まなかったか理解しなかったがゆえに未払いに遭った。

自業自得だという思いもないことはないです。

しかし、そうやって手伝ってくれた建設業者さんを裏切る様な、もしくは最初からだますつもりだったんじゃないかと思えるような今の相手方の態度は許しがたいと思います。

このYouTuberさんは、ご自身で他の動画でおっしゃっていますが、全身にタトゥーが入っているそうです。

丁寧にしゃべっていますが、ちょっと怖そうなイメージの方です。

ぼくの偏見も少しあるかもしれませんが、建設業の方なので、もしかしたら画面の外では近寄りがたい方なのかもしれません。

でも、もちろん皆が皆そういう感じの人ではないでしょうし、それとこれとは別問題です。

こういう方々がインフラを整えてくれて来たんですし、今もそれを続けてくださっているわけです。

今は救いの手を差し伸べるのが国や大阪府、政府の取る姿勢ではないでしょうか。

今回この万博工事を請け負ったことを含み、外国を含む彼ら民間の方々の契約の仕方がまずかったのであれば、今後精一杯反省してもらうことにして、とにかく今は未払いで生命の危機の瀬戸際に立たされている人たちを救うことを考えるのが筋ではないでしょうか。

詳しくは知りませんが、国債を発行するなど、日本には通貨発行権があるわけですから財政出動をすることができるのではないのでしょうか。

そうでなくとも日本人であれば、そういう人たちを救うために税金を投入することに反対はしないはずです。

立替えということであれば、なおさらです。

とにかく救ってあげることが先決です。

そういうことが考えられない、何とかしようと考えようとしない、いっしょにもがくことができない大阪府や維新の会に限らず、助けられる立場にいる首長の気が知れません。

万博は閉幕してしまったゆえにその問題は忘れ去られようとしている感がありますが、各地でメガソーラーの問題、民泊の問題、外国人生活保護の問題など元を辿るといきつく先が皆同じ問題が山積しています。

今回は中でも喫緊で議論をしている暇もない問題を取り上げてみました。

彼らの施策の末に待っている世の中に無関係でいることができないことを痛感するようになってきた最近、各地で様々な主催者が催すデモやデモ行進、街頭演説会に参加するようになりました。

ただ、まだ自分の生活で精いっぱいゆえ、思い切った活動ができませんが、できる範囲でボランティア活動をして、自分の生活圏内でも知らない人への啓発運動を心掛けています。

時限付き弾丸日帰り映画鑑賞

 

久しぶりに映画を見に行きました。

約90㎞のところにある映画館へ行き、ある映画を観てきました。

何でそんなに遠くまで?

よっぽどのお気に入りのレアな映画?か、一緒に見に行く遠方の友人との中間地点にある映画館だったのか?

しかし今回の映画鑑賞は、どちらかというと人助け?

いやそんな恩着せがましい理由ではないですね。

国民としての義務?

そんな大そうな消極的な理由でもない。

日本人としての大義のため?

うん、カッコつけて言うならそうかも。

でも究極は自分のため?

自分の居場所を守るためという意味ではそうなりますが、そう言ってしまうとどっかの国の人と大差なくなってしまいます。

やはり日本を担う後世のため、そういう気持ちが強くなってきている我が家の行動規範に突き動かされたというのが一番の理由でしょう。

まあ、普通映画を見るときは、観たいから観る、面白そうだから観る。

この映画に対しても、もちろん一部そういう気持ちはありました。

普通、90㎞離れたところまで見に行くとなると、相当な関心が必要だと思います。

しかし内容的には、そこまでもなかったんですよ。

というのは大体内容は想像がつくものだったからです。

そういう言い方をすると、ディスっているように聞こえてしまうと思うのですが、この映画はエンタメ映画ではありません。

ドキュメンタリー映画の範疇に入るでしょう。

それに、ぼくらは映画に関しては、結構「待てる」人種なので、話題になっている映画でも、別にリアルタイムでなくとも、そのうちDVDや動画配信サービスで観れるだろうと思えば、わざわざ映画館まで足を運ぶことはしません。

ではなぜそんな遠くの映画館まで行ったのか。

単純にそれは、そこが一番うちから「近かった」からです。

正確には、都合のつく日で上映している映画館がそこしかなかったからです。

もっと正確には、実は近くにもあったけれど、上演日に予定が入っていた、気付くのが遅く、本当の近場での上演が終わってしまっていたなどなど…。

気付くのが遅かったと言っても、公開日が8月16日なので、それほど遅いわけでもないのですが、結構スポット的に上映しているようでした。

もっといろいろなところで、割と毎日上映しているだろうと高をくくっていたら、東京の方では期限未定ではありますが、その他の地域では割と短い間しか上映しておらず、うちらが行った日もその日がラストチャンスだったわけです。

場所はどうやら淡路島で唯一といわれる映画館。

その日の上映は15:20からで、最初はバスで行こうかと検討を始めたのですが、一人片道3,000円するとのこと。

2人で行くと交通費だけで12,000円...

かなりお高い映画鑑賞になりそうだ…。

他の交通手段を考えた末、レンタカーを借りて行くことにしました。

レンタカー自体はニコニコレンタカーでその名の通り12時間で2,525円ですが、あの橋を渡るだけで片道910円するんですよね。

そして、映画が終わるのがだいたい17時というではないですか。

そうなると、問題は、レンタカーを時間内に返せるか。

返却時間は、その営業所の営業時間までなので、20時までには帰らないといけない。

淡路島の真ん中らへんにある洲本から3時間で帰ってこれるのかが問題でした。

グーグルマップを参照するとどうやら下道でも渋滞さえなければ帰ってこれそうでした。

そこで決行を決めました。

目的地を淡路島唯一の映画館と言われる「洲本オリオン」に設定していざ出発。

行きは大体の時間を計測しながら向かい、帰りは、もしも渋滞が酷いようなら部分的に高速を使おうということも考えました。

もっとも高速が混むことも十分あり得ると思いましたが、帰省ラッシュでもない限り、少なくとも一般道よりは速く走れるだろうということと、橋の付け根の部分の垂水の辺りの下道を迷わずに最短コースを通ってこれるのかなど、過去の経験を思い出すと、少し自信がなかったので、帰りだけはその辺りは高速を使おうという計画です。

長い話を一気に短くしますと、タイトル通り、弾丸で何とか20時までに返却できました。

日帰り映画鑑賞、部分的に高速を使い、交通費はそれでも7,000円強ということになりました。

これでもかなりお高い映画鑑賞でした。

さて、ではそもそも、そこまでしなければいけないのなら、「行かない」という選択肢はなかったのか。

それはなかったですね。

では、そこまでして見に行った映画は一体何なのか。

「WHO?」です。

Who are you?のWHOではありません。

いや、それを文字っていると思いますが、主眼は世界保健機構のWHOです。

WHOのプロモーションムービーでも観に行ったのか?

NO。

2019年の末から騒ぎになっている例の「流行病」の発生と、それの「対応策」として一世を風靡し、今なおその余韻を信じて、何の疑いもなく打ち続けている人もいる「予防注射」と思わされているアレ。

そして、その続編としての計画が粛々と進められている「ある焼き肉のタレ」の名前に似たアフリカ発祥の出血熱の恐怖を煽って予防させようとしてるのがこの「誰」なわけです。

国連の一機関という一種の立派に見える国際機関の、見るも無残な計画に警鐘を鳴らしている映画です。

すでに、去年、大きなデモが東京で行われましたが、知っている人がどれだけいるのでしょうか。

なぜなら日本の大手メディアは報道しませんからね。

なので、この映画の監督の成瀬さんはこの一つの騒動をドキュメンタリー映画にまとめたようです。

海外ではこのドキュメンタリー映画の内容は一般常識になりつつあるのですが、日本は本当にしっかりと目を塞がれて、耳に栓をされてしまっているのでメディアで報道されていること以外はしっかりシャットアウトされているのです。

アメリカはトランプ大統領大統領令によって、WHO脱退を決定し、来年には脱退することになっている今、日本はそのアメリカの穴を埋めるかの如くWHOの主役級のポジションに持ち上げられようとしています。

それに対する反対運動を観てきたぼくらも、この運動に貢献したいと思っているわけです。

だからこの映画の「材料」になるようなことはほとんど知ってると思っていたし、実際、この映画で何ら驚くような内容は語られていませんでした。

しかし、もしかしたら何かエンターテインメント性のある内容もあるかもしれないという期待もしていたことや、そういうことが一切なかったとしても、この運動の一役を担いたいという思いから鑑賞をしに行ったのでした。

観てもらいたいターゲットは本来ぼくらのような人間ではないはずです。

しかしぼくらのような人間でないとこの映画の存在すら知らない人が多いでしょうから見に来る人は一種の「ファン」の人だけ。

アイドルファンが推しのグループやメンバーのDVDやCDをまとめ買いしている構造と似ているでしょうか。

いや、その場合は週間売上ベストテンのようなものに反映されて人目につきやすくなるという効果が見込めると思う一方、この映画が何かの影響でバズりでもしない限りは、おそらく起爆剤的役割は果たさないでしょう。

そんなことは監督さんも承知の上で撮っているけれども、とにかくこの運動を記録として撮っておかなければならない。

後世に向けた実際に起きたできごとを永久凍結するつもりの記録。

だから歴史の保存を目的にした作品だととこかで話していたと記憶しています。

保存するにも費用が掛かります。

そのために本来ターゲットではないと思われるぼくらが、支援しているのです。

ここで語られていることが日本の一般常識になる日は来るのでしょうか。

来なければ日本は文字通り終わります。

いや、日本が終わって、一般常識になるかもしれません。

そんな自虐的なことを言っていてはいけません。

まだ、諦めない。

いや、絶対、諦めない。

今できることはその気持ちを持ち続けることから始まります。

「英語、話せますか?」さて、なんて答えましょ?

「英語、話せますか?」

と訊かれた日本人は、ある程度英語で文章を作れても、ぎこちない、たどたどしい英語しか口をついて出て来ないぐらいの英語力ならば「全然喋れません」と言うことが多いのに対し、

"Do you speak Japanese?(日本語、話せますか)"

と訊かれた外国人は「アリガトゴザイマス」とか、「サヨナーラ」とかの片言の日本語表現しか言えなくても"Yep, I know Japanese!"と堂々と答えるから、日本人はもっと自信を持って良いと言う人がいます。

多くの日本人は、中高で英語を勉強してきているので、単語レベルなら結構な数は知っているし、IとかYouを主語にして現在形で話す限り動詞の活用は考える必要はないので、多少の間違いはあっても単語を並べれば通じる文章になることが多いと思います。

だからそういう意味では「英語、話せるよ!」と自信を持って言ってもいいんだというのが、そういう人たちの意見なのかなと思ってます。

でも、それは、片言の日本語しか話さずに堂々と「ニホンゴハナセマス」と言う外国人の基準に合わせて、「あの程度で話せるってみなしていいんだ」といっているだけの話ですよね。

そのレベルを「話せる」というレベルにはみなせないのが普通の日本人の感覚ではないでしょうか。

まあ、I "KNOW" Japanese.と言っているだけで「話せる」と言っているわけではないと、反論できるかもしれないですが、もしそうなら、我々の英語(の単語や、表現)を知っているレベルの乖離はさらに大きく思えます。

ぼくなら、それくらいの知識で「話せる」というな!紛らわしい!と思ってしまいます。

だからといって、外国人の「話せる」といえる基準が低い、甘いだけなんだという話でもないと思うというのが、今日の話です。

自称「話せる人」

ぼくが今まで接してきた外国人でも、例えば日本語のクラスを取っていた人はほとんどの人がそう簡単には「話せるよ」とは言いませんでした。

「イエイエ、ゼンゼンハナセマセン」と言うその謙遜の姿勢というか仕草も、思い起こせば、それは日本人が英語を話せませんと言う人に近いように思います。

そしてどちらかというと、日本人の知り合いからちょっとしたフレーズを教えてもらっただけのような外国人の方が、「話せる」と、断定的に言うように思います。

きっと、片言の言語を「言える」ことで満足している人は、取り敢えず自分の意思を伝達させる意味のある表現をいくつか「覚え」て、「言える」ようになったら、それで「話せる」ことにしているんでしょう。

ただそのように定義している自称話せる人は外国人に多く、日本人にはほとんどいません。

というか、そういう日本人にぼくは会ったことがありません。

語学学習者の「話せる」の感覚

だからやっぱり外国人の方が…ということではなく、おそらく、語学を勉強したことのある人は、そう簡単には「話せる」とは言わないんじゃないですかね。

語学のクラスを受講している、または勉強している人にとって、「話せる」ことの条件は、おそらくもうちょっとあって、日常生活の中で、どのくらいですかね、会話の相手に自分の意思の数割を何とか言えるようになって、やっと「ちょっと話せる」と言えるとする人が多いんじゃないでしょうか。

それから、聴き取りのレベルとしても、相手が言っている内容の理解を勘に頼らざるを得ないような実力でもまだ「ちょっと話せる」と言うのもはばかれると思います。

つまり相手がある程度手加減してくれて、相手の脳ミソを借りて会話のラリーが2〜3往復程度できてやっと「ちょっと話せる」という資格があると考えるんじゃないでしょうか。

そういう意味で、日本人であるなしにかかわらず、つまり、「外国人」であっても言語学習者は、双方向で意思を疎通し合えるようになってはじめて「話せる」と宣言する気質を共有しているように思うのです。

比率の問題?

さて、上述のとおり日本人はほとんどの人が英語学習経験者です。

でも学習の結果がともなっていません。

だからある程度の知識はあっても、不足感の方が大きく、常に自分の語学力はまだまだだと感じていて、そういう属性の人が多いのでしょう。

そんな英語学習者に自信を持ってもらおうと、「あなたも英語を話せますよ」と言っても、学習者である限りそう簡単には「ああそうか」とはならないんですね。

対して、前述の自信満々片言外国人は、ぼくがアメリカに住んでいたときに出会った人が多いため、そのサンプルはぼくの中ではアメリカ人がほとんどです。

英語を勉強したことのある日本人の方が、日本語を勉強したことのあるアメリカ人よりも圧倒的に多いでしょうから、自信満々片言アメリカ人が比率的に多く、出会う数も多いだけだということもあり得ると思ってます。

自覚次第で語学力は伸びるのか

では、その機会に遭遇するごとに「私、〇〇語、話せます」と言っていれば語学力は伸びるのか?

もちろん、「〇〇語、話せますか」に対してどう答えようと、言語能力が変わるわけではないので、基本的にどう答えてもいいでしょう。

でも、もしも相手がその言語話者だったら、そのときの堂々とした態度から、そこから広がるコミュニケーションの方向性には影響するように思います。

自信満々片言アメリカ人がただひたすら単語と表現を記憶して言語を極めようとし始めたところで、ブロークンな日本語をガンガン発話してくれば、こちらも日本語で返しますので、日本語でのコミュニケーションをする機会は増えるかもしれません。要するに日本語に浸れます。

逆に「話せません」と答えたら、そこでジエンド。

ただ、語学を勉強していない人がその言語に浸ったとしても、文法など座学で身につける情報なしでは、コミュニケーションから得られるものも身に付きにくいと思います。

やっぱり語学力の向上には、文法(机上の学習)は不可欠です。子供が言語を覚えるのとは違って平均的な大人が習得するには、ある程度の理屈が必要です。

つまり、「勉強をする」行為なしには上達は極めてゆっくりなのです。そして勉強している人は、その真剣さは問わずとも、そのことを実感していて、理由はわかりませんが謙虚になって「言語を話せる」ということの条件が厳しくなるのではないでしょうか。

正しい答え方

では、英語を学習している身で「英語、話せますか」と言われたとき、どう答えたらいいのでしょうか。

「自信を持って!」と言われるからといって「オレはできるぞ!」「話せるぞ!」って言えばいいとは思えないですよね。

自分を過大評価しろと言われてると思えばいいわけではないのだから。

ではどういう心持ちになればいいのでしょうか。

まず、文法などを学んでいて「自信を持っていい」と言われる人は、きっとシャイだと思われているんだと思います。

「シャイになってないで、ドンドン会話を楽しんで!」と言われてるだけなんですよ。

だから多分、SVOはわかってますよね?

リズムよくやり取りできなくても、ゆっくりなら自信なくても単語を並べられますよね?

おそらく「自信持っていい」と言われる人はそのくらいはできると思います。

それならせめて「少しだけ話せます。○○の話題でカンタンなやり取りだったら」とか「お互い時間があって、ゆっくりしゃべっていいなら」とか「自己紹介とそれに付随する話題だったらちょっとだけ」とか、とにかく条件を付けたり、範囲を限定したりした上で「ちょっとだけ話せます」のように言えばいいと思うんです。

とにかく知っているフレーズを言うだけというレベルではないことはアピールしておいた方がいいと思います。

それはちゃんと文法を基に応用することを考えているということです。

そうすればウソはついてないし、過大評価も過小評価もしないで済みます。

場合によっては相手がレベルを考慮して話してくれます。そういう状況を作り出せると練習の場が増えて向上しやすくなるはずです。

自分のレベルを卑下する必要はまったくないし、このレベルの何が悪い?という気持ちでいればいいんです。

そうすれば等身大の自分を心得て学習している人に対して「もっと自分に自信を持って!」とは言わないでしょう。

まとめ

とりとめのない話になってきましたが、無理やりまとめに入りますと、「○○語、話せますか」という質問に堂々とYep!と答える人はおそらく外国人に多いという仮説は正しくなく、

✓学習するつもりがなく

✓単にフレーズを知っているだけで

✓外国人に限らないが比率が多い

と思うってことが言いたかっただけです。

ついでにぼくが思う善処策も書いてみました。

学習しない外国人の自信満々な基準などは気にしないで、自分の語学力を受け入れて、自分のレベルを把握したら、「〇〇の範囲で話せる」と普段から認識しておけばいいんです。

そしてチャンスがあったらそう言って、シャイにならないで「話そうとする」ことが大切だと思います。

学習してない人は、好きにやってください。

言語学習者はなぜか、そういう人のような強いメンタリティを持ちにくいんですよね。

以上、言語好きの一個人の単なる所感でした。

忘れた頃のクリアストロングショット・・・28カ月目?


もうどうなったかだーれも気にしていないでしょうが、地味に報告しておきます。

まず、前回1年間塗り続けたことで、だいぶ様子はよくなって来ていましたね。

結構きれいに戻ったようだったので、一旦放置してみたところ、今年の1月時点でこんな感じになってしまいました。

ダイエットで例えたら、完全にリバウンドですね。

ただ、爪の根元はそれほど影響がないのですが、半分より上でまた結構白く腐食しているようになっていました。

またこれね、事態は徐々に悪化していくじゃないですか。

一種のAHA!体験動画みたいなもんで、ちょっとずつ変わっていく変化には気が付きにくいものなんですよ。

しかも冬って靴下履いてしまうし、さらに最近は、老眼が進んでいるためか、爪の様子とか視界に入っていてもよく見ようとしない限りよく見えてないんですよね。

でもこの実態を確認したときは、「まずい!」と思いましたね。

それで実は再び塗り始めたんです。

今回は爪自体はもちろん、爪の根っこや周りの皮膚にも塗りました。

菌が悪さをするならそういう境界線なわけで、確か仕様書にもそう書いてあったように思います。

でも、今回塗ったのはお風呂から出た時だけでした。

やっぱね、冬は靴下を脱ぐのが寒いんですよ。

せっかく履いている靴下を脱いで薬を塗るという作業はメンドウなんです。

でも、そうやって約半年の今月、先程爪を確認したところこんな感じになっていました。

おおー、かなりの回復具合じゃないですか?

いや、見た目にはほぼ完璧に回復しております。

リバウンドからの回復も結構早く戻ったというところでしょうか。

前回気になっていた爪の質なんかちょっと柔らかい感じがしてましたが、今はだいぶ強そうに見えます。

自然なコーティングをされているような爪に戻ってきたように思います。

でも、やっぱり左足とは若干の違いがあるように思うので、経過観察はもう少し続けてみます。

こんな調子で日本は生き残れるのか

今月3日から始まった参議院選挙、7月20日に終わりましたね。

ぼくは、前回の記事のとおり、日本誠真会のボランティアとして、活動してました。

この17日間めっちゃ動きました。

ビラ配りのボランティアとして少し頻度を上げて活動するぐらいなのかなと思って選挙戦を迎えました。

ポスター貼り

しかし、「開幕」間近になって、まずはポスター貼り人員が不足しているとのことで、新たな任務を承りました。

そして7月3日の選挙戦解禁日、自宅近くの掲示板にポスターを貼ったその足で、候補者第一声の街宣地に向かい、ビラ配り!

と思ったら、街宣地でビラ配りをするために必要な腕章が全て出切っていてビラ配りはできませんでしたが、それだけボランティアさんや党員さんたちが集まってくれたということです。

その後は、時間がある時に、自転車や車で、特に自分の居住地域や地理が分かっている地域の掲示板にポスターを貼って回りました。

街宣車運転手として

それと平行して、街宣車ドライバーの募集があって、特に平日稼働できる人が足りないということで、気軽に応募したところ採用されました。

ぼくは、普段の生活ルーティンが午後スタートなのですが、朝9時からの出動となりました。

生活リズムが少し前倒しになりましたが、気を引き締めて一時的なイレギュラーに対応することにしました。

夜は8時までという傍目から見ると結構ハードスケジュールのような活動でしたが、ぼく自身、何かしら任務を与えられると張り切ってしまうタイプなのと、連日担当していたわけではないし、おそらく、家族旅行とかではない長時間運転ということで、緊張感も適度にありアドレナリンがしっかり放出されていたのでしょうか。

疲れはそんなに感じませんでした。

加えて、「皆さん休憩をちゃんと取ってくださいね」とか、いろいろな面でぼくに無理させないよう気遣ってくれる方々は、よしりん提唱の「四毒抜き」の効能のひとつである「人柄の柔らかさ」が表れているなあと思いました。

そんな人たちに支えられて、ウグイスさんが候補者名や党名などを連呼している中、車幅や車高を気にしながら細い住宅街を練り走り、時々停車しての応援団長の街宣中は、車を降りてビラ配りをするといった活動でした。

セキュリティ上の判断?として安堵

日本誠真会の大阪選挙区の候補者だった「よめりん」こと吉野純子さんは、残念ながらずっと大阪にいられなかったので、応援団を乗せた街宣車が府内を奔走しました。

この期間中の運転手はぼく1人ではなかったのでぼくに限っていうと、候補者を乗せて走ったのは最終日のみでしたが、一方的に存じて上げている方を助手席に乗せて走るという滅多にない貴重な経験をさせていただきました。

実は、最終日以外にぼくが運転する街宣車よしりんを乗せて移動するという予定もありました。

その時は、党首が握手会を終了するまでわざわざ待って、街宣車へ案内したのですが、乗らなかったんですね。

どういうことかなと思いましたが、セキュリティ上の判断なのだろうと勝手に思っています。

ただの、いちボランティアのぼくがそんな「大役」を仰せつかるはずもないし、しっかり安全対策を取っていると思い、逆に安心しました。

危機はまだ続きそう?

と、このような活動の末の投開票結果は、ちょっと残念なものでした。

これが残念で済むことを願いたいです。

お隣の大国の日本へのサイレントインベーションが粛々と進められている現状でこの結果を叩き出す日本の民意に危機感が拭えません。

今回、街宣地における凄い数の聴衆を集めた平野雨龍さんの当選も期待していましたが、力及ばずでした。

違法外国人問題に立ち向かうと公言していた候補者としてはたった1人、日本保守党から立候補された北村弁護士が当選したことが、唯一の救いに感じます。

北村晴男さんも弁護士ならば、日本誠真会の南出弁護士や木原弁護士と協働できないのでしょうか。

真正護憲論についてご検討いただき、賛同できるなら、外国人土地法を使って、外国人に売り渡された大切な日本の土地を取り戻す方法があることを国会内で拡散して欲しいです。

どこをどう応援するか

とにかく、まずはどの党の人でもよいので日本を防衛してくれるウソをつかない議員を応援します。

そういうことをいうと、視野が狭いと言われそうですし、実際はそうかもしれません。もしも取り返しがつかない判断だったら軽視できませんから。

特に、今回大躍進した参政党には当事者でないと分からない闇が深そうです。

国体を揺るがし得る闇なのでしょうか。

言ってることとやってることが違うとか、言うことがコロコロ変わるとか言われてますが、ホントに色々な媒体を注視していないと気が付きません。

そう思うと、今回の参院選の点で唯一の朗報は、「自公の議席を減らしたこと」程度のものかもしれません。

日本誠真会は諦めない政党として今後も戦い続けるということですし、ぼくもサポートしますが、国会がこんな布石で日本はあと何年持つのでしょうか。