雑食思想の溜め池

生活していれば自然と湧き出て来る思いの数々。ここは、ぼくの中でゲシュタルト形成や拡張へ向けて流れ着いた、様々な興味の源泉からの思想が集う場所である・・・。と意気込んで始めたものの、だんだんとその色が薄くなってきました。

英語アレルギーのアレルゲンはモダリティー?

少し前の助動詞の過去形の議論を深堀りしていたら、ちょっと深みに嵌ってしまいました。

言語学習をしていると、知らないうちに感覚的に分かった気になってくる言語感覚があると思います。

その感覚に対して、本を読んだり誰かから何かを聞いたりして新たに得たとしても(新たに気づいたくせに)、あたかも前から知っていたかのような反応をする人がいます。

例えばある情報に触れたとき、その情報はその時すでに知っていた内容でも、それを取り巻く内容や、情報に対する見方や角度、アプローチが今まで考えたことないものであれば、新しく感じたり、違う側面からの切り口や複数の点と点の繋ぎ方に独自性や斬新性など、そこに何らかの新鮮さを感じるものだと思うのです。

それを、実質的に切り口や、視点がその人にとって新しく、思いもよらなかったものにもかかわらず、ロクに詳細の確認せずに「まあ、そうだろうね」とか「そんなの当然じゃん」的な反応をする人もいます。

その人は「単に」言語化していなかっただけ故に、その内容自体は大したことないと思っているのかも知れませんが、言語化したり文字に起こすってことは、それだけで新たな価値を生み出していることだと思うんですよね。

それはもう「単に」とは言えない、誰かの気付きになる、点と点が繋がるかもしれないので、まとめることに意義があるはずです。

なので今回はある意味では、誰かさんにとっては、当たり前のように聞こえる、またはすでに当たり前のことかもしれませんが、仰々しく書いてみようと思います。

モダリティ

いきなりですが、モダリティという言葉を知ってますかね。

ぼくは数年前、外国人に日本語を教える仕事はどんなもんかなと色々調べていた時期がありました。

そんな時に出会った言葉で、それ以来ご無沙汰していました。

とはいえ、不思議なことに外国人が日本語を勉強するときに出現する言葉といっても、彼らの教科書には出てこないんですよ。

実生活においても目にしたり聞いたことがありません。

そんな言葉ですが、助動詞の過去形のことを調べていたときに、AIが使ったんです。

具体的には

モダリティとは何かというと、

「話し手が命題に対してどんな態度を取っているか」

を表す仕組みと定義されるようです。

ここで「命題」というこれまた小難しい用語が出てきますが、細かい事を抜きにして言えば「出来事」や「事実」を表した文のことで、例えば…

「雨が降っている」

「地震が起きる」

「私は今考えている」

「東京は日本の首都である」

のような文です。

これらだけでなく、例えば…

「すべての鳥は飛ぶ」

など、正しくない文も命題と言えます。

つまり、真偽が判断できるものです。

対して、命題ではないとされるものは、

「明日は晴れるだろう」(推量)

「犬はかわいい」(主観)

「このカレーはおいしい」(主観)

「ドアを閉めてください」(命令)

など客観的事実かどうかわからないものや人の気持ちが表れているような文です。

学者によっては意見が異なることもあるようですが、概してそんなところのようです。

こういった命題に対して「発言者が取る態度」とは、その内容がどの程度確かか / 必要か / 許されるか / 起こりうるか」といった現実との距離の評価を示す表現のことです。

簡単な例として挙げられるものは…

・〜かもしれない

・〜のはずだ

・〜でなければならない

・〜のようだ

・〜かな

など、その他多数ありますが、このように命題とモダリティの組み合わせで構成される文が多くあります。

命題を含まない文

では日々ぼくらが発話したり耳にする文にはどのようなものあるでしょうか。

平叙文、命令文・感動詞だけの文・挨拶文ぐらいが分かれば事足りるでしょう。

その中でも、命題ではない文…

-おはようございます。

-あっ!

-早く!

-ドアを閉めてください。

これら、挨拶文や感動詞だけの文は比較的短く独立性があるので、とにかく覚えることで身についていくように思います。

命令文の主語は常にYouなので、省略され、相手に働きかけたい言葉が動詞として先頭に出るので、文法といっても時制も絡まず比較的感覚的に理解しやすいのではないでしょうか。

命題ぐらいならついて行ける?

一方、平叙文には、「命題のみ」の文や、「命題+モダリティ」の文があるのですが、これらが学校英語の主役ですよね。

英作文とか、会話で表現するとき、モダリティを含まない命題だけの文章なら、語彙と文法を理解をがんばれば、ある程度処理できる人も多いかも知れません。

そして発話時に躓くときは、おそらくこのモダリティ付きの文章なのではないかというのが、ぼくの仮説です。

モダリティの処理

では実際モダリティをどう料理したらいいのか?

例えば、前述した

・〜かもしれない

・〜のはずだ

・〜でなければならない

というのは英語の場合、比較的認知度があると思いますが、might、must、shouldなどの助動詞で処理できます。

そして仮に、こういった英語での表現を知っていても、「なんか違う」と感じるときは、別の処理方法を知らない場合が多いのかも知れません。

つまり、日本人がよく言う「ニュアンスの違い」というやつで、細かい気持ちを表しているのがモダリティと関わっていると言えるでしょう。

因みに、モダリティは、日本語の場合、上の例のような文末表現として現れることが多いんです。

加えて、細かい事を言えば、

〜だね、〜よね

とか

〜よ

〜なわけだ

などもモダリティですが、それがあるなしで、感覚が違いますよね。

でも英語ではそれらの表現方法は文面だけでは処理できないことが多い、またはその表現は一つではないこともあるのです。

日本語のように軽く何かを付け足すだけで済まないところに苦戦するのです。

モダリティなしで話すことってありますか?

これが、英語アレルギーの人が感じるムズムズ感じゃないでしょうか。

つまり、普段から

「私は本を読みます」

「あなたはお昼ご飯を食べます」

といったような命題の文を発言することって少ないのではないかということです。

そのような発言がマッチするシチュエーションにはあまり出会うような気がしませんがどうでしょう。

なぜならこういう命題の文を発言しても、相手は「だからどうした?」と訊き返したくなるだろうなと感じるシーンが多いと思うからです。

こういう人にアレルギーが発症するのではないかと思っています。

逆に、こういう発言で乗り切れる、もしくはこういう発言に必要性を感じる人は、英語の勉強にそれほど困らない人なのではないかと思います。

で、これらの人の大きな違いとして、まず後者に該当する人は、自己紹介系というか、普遍的な内容を話したい、もしくはよく話す人で、前者のような人は、その場での個別な状況で、やり取りに必要になる内容を言いたい人なのではないでしょうか。

言い換えると、前提条件や現状の描写を一方的にしたい人、それに対して、旅行者など行きずりの人との一時的な会話を楽しみたい、もしくは自分が旅行者として人とのキャッチボールをしたい人というふうにも分けられるのではないかと思うのです。

後者の人はいいけど、前者の人が英会話をしたいと思って、勉強を始めると、まずは簡単な文章として前述のような文章を学ばされる。

でも、それは自分が言いたいことじゃない。

ちょっとしたニュアンスを加えたい…

しかし実際のところ、

〜だね

とかは付加疑問文などで言えなくもないですが、表現が露骨すぎるので、英語ではそのようなニュアンスはドロップしたり、イントネーションや顔の表情などで処理されることが多い。

そうなると、ちゃんとネイティブっぽいイントネーションや振る舞いをしないとさらに通じない。

結果、英語が遠のく…。

それが英語アレルギーのメカニズムなのではないかと思ったわけです。

さて、思い当たる人はいるでしょうか。

それとも、そんなわかりきったこと…と思われたら…

ゴメンね、ゴメンねぇ〜。

Frequent から深海魚の目を想像した話

日本が向かっている未来を危惧する人が執筆する書籍の中で、最近よく紹介される小説を読んでいて目にとまった単語がありました。

frequentという単語です。

まあ、それなりに英語を勉強してきた人にとっては大して難しい単語ではないですよね?

おそらく副詞のfrequentlyの方が使用頻度が高いかもしれませんが、いつ出くわしても取り立てて注目するような単語ではないと思います。

しかしfrequentが動詞として使われていたらどうでしょう。

普通の使い方は形容詞だと思うので、最初、その小説でこの単語を含んだ文章を読んだ時、厳密にはfrequentedでしたが、一瞬躓きました。

動詞?

意味は想像に難くないのですが、動詞として使えるの?

という疑問がよぎり、調べることにしました。

アクセント位置

まあ、Google という固有名詞でさえ動詞になる世界なので、不思議ではありませんが、気になったわけです。

もちろん動詞として使えることが確認でき、そのアクセントの位置は後ろにあるようでした。

freQUENT

動詞と名詞など、品詞は違えど同じ形の単語で、アクセント位置が違う単語はたくさんありますので、その点でも特に珍しいことはないですよね。

音声ファイル

そうなると次に引っ掛ったのは、実際の発音です。

実際の発音を聞いてみたくてオンライン上の辞書で調べてみましたが、発音記号は見つかっても、音声を掲載しているページがなかなか見つかりませんでした。

そこでAIに訊いてみました。

すると、形容詞と動詞での発音は同じで、アクセントも前にあると返ってきました。

なぬ?

シッタカAIに尋問

そこで、「それは違うだろう」と問いただしました。

そうしたら間違いを認め、オンライン辞書にはその違いを記述しており特にCambridge の辞書では動詞と形容詞でアクセントの位置が違うとして、音声もそこから引用していました。

おう、さすが、とばかりにスピーカーマークを、クリック。

すると、聞こえる音声は何ともはっきりしない、形容詞とほぼ同じアクセントのfrequentでした。

続けて「もっとハッキリ発音してくれ」とお願いするも、まるで変わらず。

free-KWENTと、前後に分離してほぼ同じ強さで発音してました。

その下には「一つ補足」がある、と断りつつ…

「現在の発音ウィジェットは一般的なTTS(音声合成)を利用しているため、このような品詞によってアクセントが変わる単語では、意図どおりにアクセントを再現できないことがあります。そのため、再生結果が第1音節アクセントになってしまう可能性は残ります。」

という「言い訳」を言ってきました。

それなら直接辞書を見てみようと、オンライン辞書のCambridge Dictionaryを見てみました。

するとイギリス英語では確かにアクセントが後ろに来ており音声でもハッキリしていましたが、アメリカ英語は発音記号では後ろにアクセントがあるにもかかわらず、音声は形容詞と変わりません。

そこでAIが参照していたもう一つの辞書、こちらはアメリカ英語では数少ない辞書の一つであるMerriam-Websterですが、これを参照してみると、動詞の発音が2つ掲載されており、音声でもちゃんと違いが聞き取れました。

何度か聞いているうちそのアクセントにも慣れてきました。

AI の陳述

最初から英英辞典で調べればよかったわけですが、せっかくなので、Alの陳述をもう少し記載しましょう。

この現象の理由をAIは次のように説明していました。

アメリカ人はfrequentという動詞の代りにー

-visit regularly

-go to often

-hang out at

という表現を使い、滅多にfrequentは使わないため、実際に使用するときは形容詞のアクセントに引っ張られる人が少なくないから、辞書にはその事情が反映されているー

言語が生きていると言われる所以のようなことが、正に起きているということなのかもしれません。

もともと二つのアクセントがあり、イギリスではその違いを堅持しているが、アメリカでは徐々に一つにまとまって行っている。

いずれはイギリス英語の牙城も崩されていくのか?

生物の進化論で言えば深海魚のような単語なのかもしれません。

もともと目を持っていた魚でも光のない深海に住むようになって目が退化していったように。

少ないものは淘汰されていく…。

Passive vocabulary builder 

因みにぼくが読んでいた小説は、かの有名なGeorge Orwell の「1984」です。

最近、日本の歴史をいろいろと塗り変えるような新情報を一次資料から発掘したり、マスコミが触れようとしない、もしくは偏った報道に対抗するかのように世の中に向けて啓発する本や、一時この世から抹殺された本の復刻版を多読するようになってきてます。

それらのいくつかの本、特に復刻版のような本は日本語でも少し古い日本語のものが多く、英語の本より理解に苦しむものがあります。

1984は、1948年に出版されたもので、クラシックというほど古くないので、英語の小説を滅多に読まないぼくでも読みやすいですね。

そして面白いことに、知らない単語が多く使われていますが、その類義語は知っているぞという単語が多く使われているので、Vocabulary builderとして使えるなと思いながら読んでいます。

進捗としては、まだ日本のカロリーベースの食料自給率ほどしか読み進められていないのですが、読み終えた頃にはかなりの単語が収集できていそうです。

1984に限らず、小説を読むことのメリットはそういうところにあるんですよね。

言うまでもなく、日本に住んでいて、英語を単なる道具としてしか扱わないと決め込んでいるなら、こういった類義語的なものは知る必要はありません。

ぼくにとっても今や実生活では必要ない単語ばかりですが、今まで12色の色鉛筆を使っていた子供が24色のクーピーペンシルを得たような感覚と似ているかもしれません。

Active vocabulary として直ぐに使えるわけではなくても、Passive vocabularyとして、またはトリビア的に脳に登録することができれば また英語の世界の見え方が変わりそうです。

「新幹線謎」からの…「翔け出せ!神馬の京都吉祥めぐり」

うちらの数少ない楽しみの一つに「謎解き」という遊びがあります。

最近の謎解きは、基本的にはクイズやパズルの集合体というか、あるコンテキストやストーリーの一部として埋め込まれたクイズやパズルを解くことで、ストーリーの当事者として物語の中を進んでいくというものが多いと思います。

そういったものを提供する鉄道会社が、ここ数年で増えてきた、もしくは目立ってきたように思うんですね。

提供している鉄道の沿線に謎を点在させて、そこへ参加者をストーリーの当事者として誘うようにすることで、一種の街興し的効果があるんだと思います。

参加者からすると、そういう「理由」でもなければ訪れることがないであろう所へ「連れて行かれる」わけです。

それを、「地元のニッチないいところに触れることができて楽しい!」と感じられる人には一石二鳥な企画なんですね。

そしてストーリーが示す建造物や看板などを探してキョロキョロしていると、面白そうな雑貨屋とか、以前だったらパン屋的なものをものに惹き寄せられて入って行ってしまうんですよ。

別にストーリーには関係ない店舗ですよ。

まんまとプロデューサーの掌で踊らされてしまうんです。

でも実際には楽しんでしまっているし、今やそれを半ば期待して参加するんです。

そして予定以上に時間を費やして予定時間内に終えられずに別日に続きをする羽目になるなんてことも起きてしまうんです。

今回はある謎解きに参加してその景品として貰ったものが万年カレンダーです。

実際に貰ったのは5月初旬ぐらいでしたかね?

この謎の開催期間が終わったのは3月末で、忘れた頃に送られてきたっていう感じでした。

新幹線謎のしくみ

昨年のある日カミさんがどっかで京都や奈良のいくつかの神社仏閣を巡るこの謎解きを見つけてきました。

無料であったことから、ストーリー設定や謎の難易度などはあまり期待できるものじゃないとは思っていましたが、年始頃なので神社やお寺巡りにはちょうどいいかもな〜と思っていたようです。

いくつかの謎をコンプリートすると景品がもらえるし…

その中に「新幹線謎」という新幹線に乗らないと解けない謎、また、もらえない景品がありました。

彼女はそれが少し気になっていたようなんです。

そんなとき、新幹線に乗る理由ができ、ちょうどいいからやってみようということになりました。

最初、参加者が新幹線に乗っているってどうやって分かるんだろうと不思議でした。

なんなら、新幹線の駅の開札辺りで問題解けばいいんじゃないのとか思ってました。

もしくは、新幹線のプラットフォームや車内に問題が掲載されてるのかなとかいろいろ考えてました。

ところがそういった説明は一切ない…。

どうやらスマホの速度センサーによって、参加者が新幹線に乗っていることを認知できると謎が現れるようなんですね。

さて、一定速度に達し、謎解きが始まります!

一問目、楽勝。

これは「謎」とは言えないね、という会話をしながら第二問目…

え?ない…

これで終わり?

でした。

なんともあっけない。

しかも、よく読むと、新幹線謎の景品は京都謎もいくつか解かないともらえない…

まあ、無料だからね…

とは言え、なんだか、ちょっと残念…な気持ちになりました。

まるでアップセル

そして数週間が経ちました。

彼女はしっかりとその謎の開催期間を把握していたようで、終了間際で「京都行かへん?」と言い出しました。

正直、あまり乗り気ではありませんでしたが、立ち寄る先の一つに豊国神社がありました。

そこは言わずと知れた豊臣秀吉縁の神社。

うちではもう2年ほど前にアンテナ線がどこかで断線してからテレビは見れなくなっているので、別に「豊臣兄弟」の影響を受けた訳でもありません。

前々から気になっていた所だし、京都も久し振りだし、何だかんだ、ぼくも景品はちょっ〜と気になっていたし、ブラタモリのように、行けば新しい発見があって楽しいもんだというのはわかってたので行くことになったんですね。

そんなわけで、新幹線謎に釣られて参加することになってしまったというわけです。

とは言え、まあウィンウィン

そして行った神社やお寺は、粟田神社、高台寺、豊国神社。

想像通り、ストーリーや「謎」は無料相当かなというものでしたが、粟田神社は、刀を祀っているせいか、刀剣乱舞のファンが結構訪れているみたいでしたね。

そしてその日最後の豊国神社は以前京大の藤井聡先生のYouTube ではかなり広い境内のように映っていたのですが、拝観時間も過ぎてしまっていたせいもあって入れる所がかなり限定されていました。

最近の京都はインバウンド旅行客でいっぱいだということは聞いていましたが、確かにスゴイですね。

こういった現状を改善しようという意識を感じられる政策を打たない政府の気が知れません。

これは、単に道が混んで地元民に迷惑をかけているなどという表面的な問題ではありません。

今の現実を鑑みると、このように思うのは不謹慎で、現実を憂う気持ちと非常に矛盾した感覚なのかも知れませんが、ぼくは、今後この国の安全性が脅かされたり、主権を奪われるなど、平たく言うと崩壊することがないのであれば、街ゆく外国人が多いことには全く嫌悪感を抱きません。

このように思うのは、街ゆく外国人が日本の国体に対して、心から敬意を払ってくれていることが前提ですが、自分が外国へ行くときのメンタリティとして、それが当たり前なので、日本に来る外国人も同じだろ?と思ってしまっているからかも知れません。

しかし、現実には外国人が、自国の文化やしきたりをそのまま日本に持ち込んで、その輪を拡げ、社会の形を変えているといった人々の声があるので、手放しに安心してられない気持ちが沸き起こっているのです。

鉄道沿線「謎解き」のススメ

さて、街歩きの謎解きというのは概してその土地の歴史や文化を題材にしていることが多く、「謎」というキーワードにつられてその街のことを知る良い機会を提供していると思います。

最近は商店街に同じ謎解きパンフレットを持ってキョロキョロしている人を多く見かけます。

そうやって小さな各地に目を向けて、そこの文化や工芸品、特産物のみならずその土地自体や歴史などに愛着を感じるようになる人が現れたら、それらを日本人の手で守りたい、継承していきたいという世論が膨らむタネになるのではないかと期待しています。

ド近眼用脱着式老眼鏡 ー 実践


今回の企画は、100均で調達したこの老眼鏡(↑)を何とか細工して、この眼鏡(↓)に何とか付けれるようにしてみようという企画です。

意気込んで取り組み始めたのはいいのですが、途中経過を記録するの忘れてしまいました!

…なので、もう一つ別の眼鏡用に挑戦した老眼鏡での途中記録写真を載せます。

これ(↑)に、形がとても似ているこの(↓)ウェリントン型の老眼鏡…

これも100均ですが、これをプラスしてみます。

まず、老眼鏡のヒンジ(↓)のネジを外し…

ツルを取り除きます。

ローターでこのヒンジのブロック(↓)を切り外します。

続いて鼻当て近くのフレームにマスキングして、不要なところを削り取ります。

すっきりしました(↓)。

そして
ツルの付け根に穴を開けて、ゼムクリップをチョコチョコっと曲げて挿し込みできあがったのがこれ(↓)です。

眼鏡に装着すると、この通り(↓)です。

正面からみるぶんにはさほど変ではないですよね?

これを角度をつけて見るとちょっと存在感が増します。

まあ、こんな感じの工程を施した冒頭の老眼鏡はこんな感じで眼鏡に装着されます。

こっちの老眼鏡は、ひと手間加えられており、鼻当てのところにもクリップの針金を挿し込んであります。

この眼鏡には、マグネットで脱着可能なサングラスが付属しています。

そのサングラスを眼鏡に装着するときに機能するマグネットが眼鏡側にあるので、それを活用したものです。

そのパーツがないと、レンズが眼鏡に固定しないので、下を向いたときなどパタパタとフリップしてしまうんです。

そういうわけで黒縁の眼鏡の方はまだ実用的ではないため保留中なのです。

もしかしたら、クリップでアタッチするタイプの老眼レンズやサングラスがあるじゃないかという人がいるかもしれません。

それは以前使ってたんですが、やっぱりレンズを挟む式なので、少しずつ傷がついていくんですね。

それがイヤなのです。

また、見た目もイマイチ。

今回のこの工作も、レンズが2枚重なっているので、違和感を与えるかもしれません(自分と対面する人に対してです)。

でも少なくとも正面から見る限り、多少の違和感を与えても、不細工さは免れるんじゃないかなー、免れたらいいなーと思って作りました。

ということで、できあがりです。

正直なところ、簡単には外れませんが、やはり完璧には固定しないので、カチカチとフリップしては戻る音がすることもありますね。

ぼくはこれのサングラス版を作りたいと思っていますが、眼鏡側には一切の細工をしたり傷つけない方法がなかなか見つからず、試行錯誤を繰り返しているところです。

ド近眼用脱着式老眼鏡 ー 眼鏡との関係

最近では、何かと差別的だとか言われそうな名詞なのか、若年者でも使うことが多くなってきたからなのか知りませんが、「老眼鏡」が英語から拝借した「リーディンググラス」という言葉で売られていることが多いような気がします。

改めて「老眼鏡」という言葉をマジマジと読むと、確かに直接的でグサッときそうな名称ですが、もちろん悪気を持ってつけられた名詞ではないと思うんです。

子供のころから聞いていた人にとってみたらわかりやすい。

スチュワーデスがCAとかキャビンアテンダントとかって言うようになって、いきなり気を遣うようになった時の感覚に似ているような気がするのはぼくだけでしょうか。

恐怖の視力検査

ぼくは小さい時から目が悪く、毎年の健康診断での視力検査が特に恐怖でした。

親としても、息子の眼が悪く、子供の時から眼鏡を掛けさせるのが可哀想に思っていたようで、いろいろ視力回復のために手を打ってくれましたが、当人としては、だからといって怒られたとかいうわけではありませんが、そんな親の真剣さが、自分の資質不足残念がっているような、管理不足を指摘されているようで怖かったんです。

子供ながらにですよ。

最終的には眼鏡ではなく、コンタクトから矯正生活が始まりました。

その後の進行具合はことのほか速く、30歳になったころには既に0.1に到達し、底に到達したと思っていたら、まだ先があることを知りました。

その頃、疑問に思っていたことがありました。

それは近眼の人、特にド近眼の人は老眼になるのだろうか?ならないのではないか?

だって、老眼の人は近くが見えないんでしょ?

ぼくは遠くが見えないのです。

ド近眼が言う「遠く」というのは、目前20cmより先のことです。

そっから先に置かれた本や新聞の文字は読めません。

近眼用の凹レンズを必要とする人が、虫眼鏡のような凸レンズを使用する老眼鏡を必要とするわけがない。

そう思ってました。

近眼とド近眼は違う?

時を高校時代に戻します。

その頃のぼくの視力はまだ普通の近視程度でした。

当時、数学の先生が掛けていた眼鏡が2焦点眼鏡っていうんでしょうか。

レンズの下の方に度の違う小さなレンズが埋め込まれている眼鏡で、そのレンズが老眼用だということは分かってました。

それは眼鏡を掛け変えなくても、視線を下に向けるだけでいい仕様になっている眼鏡で、とても画期的だと思った記憶があります。

その記憶は事あるごとに蘇ってきて、自分が老眼になったら同じような仕様の眼鏡を作るようになるのかなと想像していました。

しかし、視力0.1を大きく下回り裸眼では20cm先の文字も読めないぐらいになったとき、あの2焦点レンズの眼鏡は近眼でも、ある程度近くは見えるぐらいの「良い」近眼の人にしか使えないじゃないか。

だって、あの小窓は所詮近くのものを見る老眼鏡でしょ?

それに、だいたい眼鏡を掛けている普通の近視の人が老眼になるとまず、近くを見るとき眼鏡を外しますよね。

それで読めるようになるんですよね?

その程度の近視なんでしょ?

さらに老眼が進んだとき老眼鏡を掛けるのだから老眼鏡というものは、今後ある程度近視が回復しない限り使うはずがない。

要するに単なる近眼とド近眼は違うんだ。

と思うようになってきました。

時は過ぎ

前述のとおり、ぼくぐらいド近眼になると、たとえ20cm先の本を読むにも眼鏡が必要なんです。

そしてそれより近いものは、裸眼でも見えましたが、眼鏡を掛けてても見えてたのです。

ところが、ある時から予想だにしていなかった事が起きました。

例えば、足の裏に刺さったトゲを探したり、まあ手でもいいんですが、何かが刺さっているかのようにチクチクするとき、相当、顔や眼をそのモノに近づけますよね。

それが眼鏡を掛けていても見えていたものが見えにくくなってきた…

ピントが合いにくくなってきたのを感じたのです。

そう、なんと、近くが見えなくなり始めたのです。

ナルホド、これが老眼か…

いや、ちょっと寝不足だからやろ…

トゲなんて滅多に刺さるものじゃないので、そうやって5年ぐらいは自分をごまかせたものの、やっぱり見えづらさは確実になってきました。

その場合、文字を読むときはある程度想像で賄えるので、ごまかせちゃうのですが、細かいモノを触ったり作る際には、ハッキリ見えないと誤差が大きくなるし、工作で切削工具を使う場合は危険なこともあります。

そういう意味で、近くのものにもピントが合わなくなってきてからは、普通の近眼の人のように眼鏡を外して見ないと見えなくなりました。

しかし、裸眼ではモノを20cm以内に寄せなければ見えないので、足の裏などのトゲはとても対処が難しくなったんです。

特に切削工具を使う場合は、削りカスや切れ端の跳ね返りに注意しないとかなり危険になってきました。

ヒラメキ

そしてさらに時は過ぎたある日、もしかしたら、眼鏡を掛けた状態にさらに老眼鏡を掛けたら良く見えるのか…?

そう思って、職場のカウンターに置いてある来客用の老眼鏡を眼鏡の上にあてがって覗いてみました。

すると、まさか!

近くが見えるではないですか!

そういうことか…

今、近眼用の眼鏡を掛けていますが、裸眼プラス近視用眼鏡の状態が普通の人の老眼状態と同じなわけだ、ということがわかったのです。

ついに老眼鏡のお世話になる時が来たか…

見えないのに見栄っ張り

ここで再びぼくの親の話しで横路に逸れてしまい恐縮ですが、彼らとZOOMをやっていたり文書や何かをシェアして話をしているときのことです。

画面を通して共有している画面上の文字がちゃんと見えてないとか読めてないということがよくあるのです。

こっちは彼らと認識を共有しているつもりで話しているのに、何か反応がおかしい。

そういう時は、一生懸命目に力を入れて見てるんですよね。

それで見えてるならいいけど、見えているのか確かめようとすると

「こんな小さい字じゃ見えないよ」

とか、しばらく続けていると

「あ~、疲れた」

とか言い出すんですよ。

見えてなかったんかい!

じやあ、今までの話わかってないんじゃないの?

って訊くと

「…」

と返事を濁す。

ぼくとしても、大変だなと同情していましたが、よく考えると

「ちょっと待って、眼鏡取ってくる」

ということを、自ら言ったためしがないんです。

こっちから

「眼鏡かければいいじゃん」

というと、

「あれ?何処置いてたかな」

とか言って、取りに行ったと思ったらなかなか戻って来ないんです。

そういうことがあるから、次のZOOMミーティングのときは眼鏡を手元に置いているかと思いきや、まるで初めての体験かというくらい同じ反応をするんです。

さらに良く思い出すと、彼らが老眼鏡を掛けて本を読んでるとこ見たことないと思いました。

まあ、父親は本を読んでるところ自体見たことないんですけどね。

そういったことを鑑みると、眼鏡を掛けることが体に悪いと思っているか、自分はまだ老眼じゃないと言い張りたいように思えてきました。

眼鏡on眼鏡

本題に戻りまして、ぼくとしては、自分の眼鏡の上に老眼鏡を掛けると見えるようになることがスゴイ発見でした。

これなら自分用の老眼鏡を作ろうと思い立ちました。

前置きが長くなりましたが、ここからが今回の本題の本題です。

別にぼくの視力論議はどうでもいいんです。

実際の運用としては、この「老眼鏡on近視用眼鏡」の製作を思い付いたと同時期に、遠近両用眼鏡を新調していました。

ですので、その眼鏡を使えば遠くも本の文字もよく見えますが、本を読むときは常に視線を下にしてますし、読書以外の手元の作業をする際には、視線の位置を気にしないでいたいものです。

要するに、単焦点の普通の老眼鏡も有れば便利なんですね。

必要な人いないのか?

ところで、眼鏡に縁(えん)のない人は知らないかもしれませんが、眼鏡には、調光レンズを使って、紫外線への露出の多い屋外では色が付くサングラスと一体化したものがあります。

または、眼鏡に取外しのできるサングラスを重ねられる構造の商品もあります。

眼鏡にクリップで挟み、フリップできるタイプのものはあります。

でもクリップタイプはあまり好きじゃありません。

あとは、普通の近視用の眼鏡を外さずに掛けたままレンズ部分をフリップさせ裸眼を露出できるものもありますね。

でも、なぜかフリップできる老眼鏡は見たことないんです。

今、ふと思いましたが、フリップ型のサングラスを老眼鏡にしてもらえるオプションをつけているショップはあるのだろうか?

それができるならばぼくの工作は不要になります。

まあ、あまりオプション費用がかからないことが前提ですが…

本題に入りつつ、まだゴタゴタ書いてちょっと長くなりすぎたので、本題は次回にしましょう。

翻訳するとは・・・母国語⇔外国語の往復?

翻訳するという作業をみなさんはどのように感じているでしょうか。

...

いきなり、なんのこっちゃという感じですよね。

うん。

今日はちょっとマニアックな独り言をしたいと思います。

翻訳のイメージです。

例えば自分の母国語は日本語で、外国語として英語も使えますという状況で、翻訳するという作業をイメージしたとき、どのようなことが頭に浮かびますか。

タイトルに書いたように

「日本語で思っていることを英語に置き換える。またはその逆」

というイメージをする人が多いんじゃないかと思って、それを「日本語⇔英語」で表してみたわけです。

ん?

で?

ぼくは最初はそういうイメージだったんで、多くの人もそういうイメージなんじゃないかと思って書いてみました。

それを前提として少し話を進めてみます。

英語が使えるようになったころはそういうイメージだったんですが、それが、ある日、というか翻訳をしてしばらくして、他の人の翻訳の校正を始めたらそのイメージでは、「翻訳」をやって行くことはできないことに気が付いたのです。

特に日本語から英語に訳す英語ネイティブのクロスチェックをしていて感じましたね。

その前に…

「英会話」をするなら

ある程度まで英語ができるようになってくると、アドバイスとして、よく、「言いたいことは英語で考えろ」って言われませんか?

日本語を考えてそれを英語にするんじゃなくて、最初から英語で考える訓練をするとさらに英語ができるようになるというアドバイスですね。

それって、自分の頭の中から湧き出る言葉を日本語ではなくて、最初から英語にするということなので、まあ自分が作り出す文章なわけです。

つまりオリジナルの文章、会話や日記で自分の思いを表現する場合の話ですよね。

「翻訳/通訳」をするなら

それでは、英語から日本語、またはその逆に翻訳や通訳する、つまり訳すときはどうするかってことを考えたいと思います。

それが先程の「日本語⇔英語」の作業をすることですね。

まず翻訳とまで行かずとも、訳すということは、誰かが書いた(または言った)言葉からスタートしますよね。

日英なら日本語を頭に思い浮かべて、文章を分析します。主語が何で動詞が何で・・・という具合に。

そして、「使う単語や文法を・・・」って考えるのが普通かと思います。

おそらく取り扱う文章の大部分はそう言った機械的な作業で問題ないでしょう。

まあ、最初はたいていそれでことが済むことが多いんですが、それをやっているだけだと、やがて行き詰るときがくる。

ぼくには、実際に来た。

ということを言いたかったんです。

英語⇔「事柄・現象」⇔日本語

日本語を見たり聞いたりして、それを単に英語に「置き換える」ようなことをやっていると変な訳になることがあるということです。

わかりやすい例で行くと、

「今、誰がボールを持っていますか。」

という日本語を英語にするとします。

「持つ」は「have」や「hold」などを使うとして、「ボール」は最初に思いついた単語が「ball」だとして、そこから出来上がる英語が

"Who holds the ball right now?"

だとします。

それぞれの単語も対応しているし文法も正しいですね。

意味も通じます。

でも、これがビジネスというシチュエーションだとしたらどうですか。

つまり、文章的には割と口語的な表現かも知れませんが、メールなどの文面であれば

「今、誰がボールを持っていますか。」

としか書いてなくても、

「今、(この件について)誰がボールを持っていますか。(早く処理してください)」

という文脈の中だったらそのままでは変ですよね。

"Who are we waiting on right now?"

あたりが自然な英文になるでしょう。

そういうことです。

臨場感を持って訳しているか

だから、日本語が頭に浮かんでそれを訳してみるとき、その日本語が表す状況を思い浮かべて、それを英語にするということをしないといけないということです。

これはできる人は当たり前のようにできるんでしょうけど、ぼくのように時間がかかる人の方が結構多いんじゃないでしょうか。

英語ネイティブを含めてかなり両言語に卓越している人でもそういう人が多くて、簡単に日本語から英語にできて、それ自体は文法も間違ってないし、文章単体としてみたら意味は通る。

でも翻訳者としてどうでしょう。

「文脈にあってないだろ!」ってことがしばしばあって、それは何度注意してもなかなか改善しないんです。

言うまでもないかもしれませんが、英語ネイティブの中にもスゴイ翻訳者はもちろんいて、そういった変換をサッとできたり、日本人以上に日本人の心を持っている翻訳者から日本人だと見落としそうな注釈を付けてくれる方もいることは書いておきたいと思います。

さて、英語ネイティブによって日本語から英語に翻訳された訳文をチェックしていると、結構こういう訳に遭遇するのですが、訳者に「この英文は自然ですか?私が思うに…」と、そう思った理由とともに失礼にならないように差戻しすると修正されてくるのです。

差し戻されてようやく頭の中に状況が描かれるんですね。

まあ、ほとんどの場合、不自然であることを素直に認めてくれることが救いです。

これは、まだ翻訳経験の浅い英語ネイティブだけでなく、日本語検定のN1を持っている人や、ほぼ完璧なバイリンガルでも訳すという作業をするとそうなってしまう人がいます。

訳しているドキュメントが自分の精通している分野だと、おそらくその状況が頭の中に正しく前提を作り上げて、それを中心に日本語から英語へと変換していくんでおかしなことにはならないんです。

要はどのくらい原文ドキュメントの世界に没入できるかによるんですね。

翻訳者は役者?

簡単に言うと、その文章を書いた人に憑依するってことですね。役者みたいなものかもしれません。

しかし、精通してなくても、前提を確認して、せめてその場面をしっかり想像することが大事なんです。

単に母国語と外国語を行ったり来たりするだけでは翻訳にはなりません。

母国語と外国語の間にある、言葉になっていないその思いを感じてモクモクと成長させて作り上げることが大事なんです。

そこからそれを母国語にどうやって表現するかという作業をすればより良い翻訳になると思っています。

そのためにリサーチが大切になって来るんですよね。

そのドキュメントで扱っている内容を取り込んで憑依する準備をする。

単に「専門用語」を「英語では何ていうのかなあ~」とか言うことを知るだけではなく、その題材の空気感を得ていくためにするんですね。

Between the words and the heart

母国語と外国語の間を考えるということは、日本語だけで考えているときにも似たような作業をすることがあります。

とても良いものや美しいもの、逆に嫌なことなどを人に訊かれて「言葉にならない」って言ったりしますよね。

あれなんか正に日本語なんだったらわかるだろ?

って言いたくなるところだと思うんですが、思っていることと母国語の間が上手く繋がっていないってことですね。

Between the words and the heart

というタイトルの曲があります。

これは、ぼくが大好きな小田さん(小田和正さん)の歌なんですが、そこには

「言葉と心の間、それは君しかわからない」

という一節があります。

とにかく今思っていることを言葉にしないと伝わらないよ、と言っていると思うんですが、まあ、この場合は、単に

「黙ってたら伝わらないよ」

というだけかもしれませんが、言葉にしたことで誤解が生じることもあるわけで、そんなときはもっと表面的なことじゃなくてしっかりと心に向き合ってその心情に相応しい言葉を探して伝える努力をしよう、と言っているのではないかと思ったわけです。

つまり、日本語だけの場合でも、その場、その場面の状況などの心の中で描いた絵と言葉の間で行ったり来たりしているということです。

おそらく、英語とドイツ語、スペイン語とイタリア語やフランス語といった同じ言語ルートを持つ言語間ではその差が大分少なく、単純な言葉の置き換えで済むケースが多いでしょう。

しかし日本語とヨーロッパ言語のような組み合わせの翻訳では、言語の「気持ち化」や「情景化」、さらに、そこからの言語化という作業が必要不可欠になります。

たかがボール、されどボール

さて、先程の

「今、誰がボールを持っていますか。」

についてもう少し書いてみます。

日本語の「ボール」は発言の順番を表すバトンのようなものの比喩として使われており、英語でも

“The ball is in your court.”(あなたの番だ)

というように使うようですが、ボールをそのように使うのは、この言い回しに限定された表現のようです。

ballをそれ以外の使い方をすると、不自然となり、相手にいろいろ考えさせてしまうみたいなので比喩は要注意です。

もしも

Who hold the ball now?

と言った場合、誰の行為を待っているのか、というよりは、誰に権限や責任があるか?といった方向で解釈される可能性が高いようです。

この日本語の使い方を知っているかどうかということが大きいと思いますが、知らなければ不自然さは感じると思うんですね。

でも不自然さを感じた時にいかにそれにこだわるかが大切なんです。

普段の会話でしたら多少聞き流して、後で知るってことも成長の過程だと思いますが、翻訳をしているとそういうわけにはいきません。

ここで出した例は簡単な分かりやすいものですが、とにかく翻訳とは単に二言語間の往復ではないということです。

以上、マニアックなお話しでした。

動詞の「形」と「意味」の非同一性

しょうもない話ではありますが、「仮定法現在」とか「仮定法過去完了」などのややこしい名前はともかく、「現在形」とか「過去形」という名前について、最近ちょっと物申したくなってきているんですね。

これって前者ふたつは簡単に言うと「動詞の原形を使った仮定の表現方法」や「過去完了形を使った仮定の表現方法」という意味ですよね。

一方、「現在形」や「過去形」は名前はシンプルですが、その使い道が多くないですかね。

というのは、ある動作を表現しようとしたとき、それが現在のことだから動詞の現在形を使うのかなと思って使ったら違う意味で解釈されたとか、英語の動詞が過去形だからその文章の意味は過去のことかと思ったら違ったとかそういうことです。

言うまでもなくこれらの文法用語は、動詞の-ing形や-ed形、またそれらと他の単語との組み合わせや並べ方といった「形」につけられた名前です。

しかし「名は体を表す」ではなく、「この名は体の一部を表す」であって、「具体的に一つの〇〇を表現するための形」ではないということです。

つまり表現できることの代表選手を名前として付けられているのです。

ずいぶん前に英語の勉強をするときは現在形より過去形の方がシンプルで分かりやすいからそっちから手を付けた方がいいのではないかという記事を書きました。

そして先月、助動詞の過去形について議論しました。

こういうテーマの核心は、「〜形」という文法用語と、その意味の不一致は、誤解を生む原因でもあるのではないかと思うんですね。

きっとこの不満はぼく特有のものではないと思うんです。

「過去形/現在形」の守備範囲

大概の言語の動詞には「現在形」や「過去形」があり、それらの意味するところは「ほとんど」がその名称の通りです。

そして、英語に関しては、現在形の概念より過去形の概念の方がシンプルなので、そちらを先に学ぶ方がいいのではないか、というのがその時の議論でした。

今回は、動詞の形と意味の話です。

一つの形を実際には、かなり拡張した意味(用法)で使いますよね。

前回の助動詞の過去形の話で言えば、

「過去形」≠ 過去の事実のみ

(couldが常に「できた」を表すわけではなく、mightが「かもしれなかった」を表すわけではない)

ということです。

さらに-edを付けた過去分詞形なんか、規則変化する動詞だったら見た目は過去形と同じです。

「過去〇〇」だといっても、その意味が過去であるとは限りません。

特に受動態は時間的な概念はないので、用語に引きづられやすい人はそういうところで「ナゼ?」と思ってしまうのではないでしょうか。

日本語の動詞の現在形でいえば

「現在形」≠ 不変の事実のみ

(「これからする」ことも表現できる)

そういう事実があるために、言語学習者は最初の関門に引っかかるんだと思います。

やっぱり新しい言語を勉強していて、動詞の現在形とか過去形と聞いて、いくつか文章を作れば、その時制の名前と意味がイコールで結ばれてしまうことが多いと思うんです。

「最初はとにかく覚えろ」といった姿勢で教えられたら、まあ話の筋は通って聞こえるから、そのように覚えて支障はないと思うのも無理はないと思います。

しかしやっとその考えが定着して、自分でだんだんと文章を作るようになっていくと、壁にぶち当たるんです。

レッテルの束縛

「もしも○○だったら、△△だったろうに」とか、仮定の話をする時は過去形を使うのだなど、「過去形の新たなルール」だとか、「例外」だとか「助動詞の過去形は他の動詞の過去形とは切り分けて考えるのだ」などと言われると若干イラっと来ると思うのですがどうでしょうか。

感覚の良い人は、日本語でも、「〇〇だったら」というように仮定の場合は「過去形」と同じ形に活用しますが、この動詞は時間的な過去を表していないということに気がついて、妥協することができるかもしれません。

だいたい、

「仮定」を表すときは「過去形」を使う

とか、

「受動態」の文章では、「過去分詞形」を使い、多くの動詞は過去分詞形と過去形が同じだ

とか

「未来」を表すときは「現在進行形」も使える

とか言われたら、何でその形の名前を「仮定形」にしなかったのか、とか「未来形」にしなかったんだ、とひと言言いたくなると思うんですよね。

形式に具体的な意味や機能を連想させる名前を付けるからこんがらがる。

そうなると、学習者が形式名と意味は多くの場合一致しないことを体感的に得られるかが上達のカギとなります。

上書きが得意な人ならいいけど、ぼくのような苦手な人は、無意識のうちにその名前が表す意味を引きずってしまって、理解を邪魔されたり、症状がひどい人の場合はどうして「現在形」なのに未来を表すのかという疑問から抜け出せなくなるんですね。

鬼滅の刃を参考に

そこでぼくが提案したいのは、動詞の形の名称をもっと抽象的にして、例えば…鬼滅の刃のように、今の現在形を「壱の型」、過去形を「弐の型」とかにしておくのです。

例えば過去表現には「弐の型」を使うと学び、新しい単元で、例えば現在の仮定を表現する時にも「弐の型」が使えるといった具合に整理するのです。

つまり、時制や機能が絡んだ名前をやめて、単なる記号の名前をつけるのです。

そうすれば名前に引っ張られにくくなるので、少しは記憶を上書きしやすいのではないかと思うんです。

レッテル剥がし

基本的に人間はレッテル貼りが好きな生き物だと思うので、一度名前を付けるとその執着力は絶大なんですよね。

イメージで結びつけられたものは改訂するのが本当に難しいです。

特に日本人は、一度決まったものはできるだけ変更したくないと思うんです。

将来的に変更される可能性があるなら最初からそう言っておいてくれと…

しかし必ず書き換えがあるとわかっているなら、今から教えておいてくれ…

そういうふうに考える人が多いと思うんです。

そしてそこに初めから足を踏み入れると多くの人がアレルギー反応を起こすのではないでしょうか。

とはいえ…自分なら

そんな提言をしても何も変わらないのが現実です。

そうなったら、動詞の形の「用語」を真に受けるな、ということを、学習前に徹底的に教える。

実際に教える際は、「過ぎ去った事実を表現するには基本的には動詞の語尾に-edをつけるが、この形はほかの表現にも使う」といった説明で活用の方法を教え、「過去形」という言葉を使わない。

しかし、どこかで必ず「過去形」といった用語に遭遇することがあるはずなので、「『過去形』という名前を聞いても過ぎ去った事実だけを表すわけではなく、いろいろな意味の表現に使う」ということをしっかり理解してもらう。

学習意欲がある人を相手にしているなら、「色々な意味で『距離』を持たせたいときに使う」とか言って匂わす。

…という方針を取るでしょう。

別に今、誰かに言語を教えているというわけではありませんが、もし教えることがあったらどうやって教えるのがいいんだろうかとつい考えることが多々あります。