雑食思想の溜め池

生活していれば自然と湧き出て来る思いの数々。ここは、ぼくの中でゲシュタルト形成や拡張へ向けて流れ着いた、様々な興味の源泉からの思想が集う場所である・・・。と意気込んで始めたものの、だんだんとその色が薄くなってきました。

「新幹線謎」からの…「翔け出せ!神馬の京都吉祥めぐり」

うちらの数少ない楽しみの一つに「謎解き」という遊びがあります。

最近の謎解きは、基本的にはクイズやパズルの集合体というか、あるコンテキストやストーリーの一部として埋め込まれたクイズやパズルを解くことで、ストーリーの当事者として物語の中を進んでいくというものが多いと思います。

そういったものを提供する鉄道会社が、ここ数年で増えてきた、もしくは目立ってきたように思うんですね。

提供している鉄道の沿線に謎を点在させて、そこへ参加者をストーリーの当事者として誘うようにすることで、一種の街興し的効果があるんだと思います。

参加者からすると、そういう「理由」でもなければ訪れることがないであろう所へ「連れて行かれる」わけです。

それを、「地元のニッチないいところに触れることができて楽しい!」と感じられる人には一石二鳥な企画なんですね。

そしてストーリーが示す建造物や看板などを探してキョロキョロしていると、面白そうな雑貨屋とか、以前だったらパン屋的なものをものに惹き寄せられて入って行ってしまうんですよ。

別にストーリーには関係ない店舗ですよ。

まんまとプロデューサーの掌で踊らされてしまうんです。

でも実際には楽しんでしまっているし、今やそれを半ば期待して参加するんです。

そして予定以上に時間を費やして予定時間内に終えられずに別日に続きをする羽目になるなんてことも起きてしまうんです。

今回はある謎解きに参加してその景品として貰ったものが万年カレンダーです。

実際に貰ったのは5月初旬ぐらいでしたかね?

この謎の開催期間が終わったのは3月末で、忘れた頃に送られてきたっていう感じでした。

新幹線謎のしくみ

昨年のある日カミさんがどっかで京都や奈良のいくつかの神社仏閣を巡るこの謎解きを見つけてきました。

無料であったことから、ストーリー設定や謎の難易度などはあまり期待できるものじゃないとは思っていましたが、年始頃なので神社やお寺巡りにはちょうどいいかもな〜と思っていたようです。

いくつかの謎をコンプリートすると景品がもらえるし…

その中に「新幹線謎」という新幹線に乗らないと解けない謎、また、もらえない景品がありました。

彼女はそれが少し気になっていたようなんです。

そんなとき、新幹線に乗る理由ができ、ちょうどいいからやってみようということになりました。

最初、参加者が新幹線に乗っているってどうやって分かるんだろうと不思議でした。

なんなら、新幹線の駅の開札辺りで問題解けばいいんじゃないのとか思ってました。

もしくは、新幹線のプラットフォームや車内に問題が掲載されてるのかなとかいろいろ考えてました。

ところがそういった説明は一切ない…。

どうやらスマホの速度センサーによって、参加者が新幹線に乗っていることを認知できると謎が現れるようなんですね。

さて、一定速度に達し、謎解きが始まります!

一問目、楽勝。

これは「謎」とは言えないね、という会話をしながら第二問目…

え?ない…

これで終わり?

でした。

なんともあっけない。

しかも、よく読むと、新幹線謎の景品は京都謎もいくつか解かないともらえない…

まあ、無料だからね…

とは言え、なんだか、ちょっと残念…な気持ちになりました。

まるでアップセル

そして数週間が経ちました。

彼女はしっかりとその謎の開催期間を把握していたようで、終了間際で「京都行かへん?」と言い出しました。

正直、あまり乗り気ではありませんでしたが、立ち寄る先の一つに豊国神社がありました。

そこは言わずと知れた豊臣秀吉縁の神社。

うちではもう2年ほど前にアンテナ線がどこかで断線してからテレビは見れなくなっているので、別に「豊臣兄弟」の影響を受けた訳でもありません。

前々から気になっていた所だし、京都も久し振りだし、何だかんだ、ぼくも景品はちょっ〜と気になっていたし、ブラタモリのように、行けば新しい発見があって楽しいもんだというのはわかってたので行くことになったんですね。

そんなわけで、新幹線謎に釣られて参加することになってしまったというわけです。

とは言え、まあウィンウィン

そして行った神社やお寺は、粟田神社、高台寺、豊国神社。

想像通り、ストーリーや「謎」は無料相当かなというものでしたが、粟田神社は、刀を祀っているせいか、刀剣乱舞のファンが結構訪れているみたいでしたね。

そしてその日最後の豊国神社は以前京大の藤井聡先生のYouTube ではかなり広い境内のように映っていたのですが、拝観時間も過ぎてしまっていたせいもあって入れる所がかなり限定されていました。

最近の京都はインバウンド旅行客でいっぱいだということは聞いていましたが、確かにスゴイですね。

こういった現状を改善しようという意識を感じられる政策を打たない政府の気が知れません。

これは、単に道が混んで地元民に迷惑をかけているなどという表面的な問題ではありません。

今の現実を鑑みると、このように思うのは不謹慎で、現実を憂う気持ちと非常に矛盾した感覚なのかも知れませんが、ぼくは、今後この国の安全性が脅かされたり、主権を奪われるなど、平たく言うと崩壊することがないのであれば、街ゆく外国人が多いことには全く嫌悪感を抱きません。

このように思うのは、街ゆく外国人が日本の国体に対して、心から敬意を払ってくれていることが前提ですが、自分が外国へ行くときのメンタリティとして、それが当たり前なので、日本に来る外国人も同じだろ?と思ってしまっているからかも知れません。

しかし、現実には外国人が、自国の文化やしきたりをそのまま日本に持ち込んで、その輪を拡げ、社会の形を変えているといった人々の声があるので、手放しに安心してられない気持ちが沸き起こっているのです。

鉄道沿線「謎解き」のススメ

さて、街歩きの謎解きというのは概してその土地の歴史や文化を題材にしていることが多く、「謎」というキーワードにつられてその街のことを知る良い機会を提供していると思います。

最近は商店街に同じ謎解きパンフレットを持ってキョロキョロしている人を多く見かけます。

そうやって小さな各地に目を向けて、そこの文化や工芸品、特産物のみならずその土地自体や歴史などに愛着を感じるようになる人が現れたら、それらを日本人の手で守りたい、継承していきたいという世論が膨らむタネになるのではないかと期待しています。

ド近眼用脱着式老眼鏡 ー 実践


今回の企画は、100均で調達したこの老眼鏡(↑)を何とか細工して、この眼鏡(↓)に何とか付けれるようにしてみようという企画です。

意気込んで取り組み始めたのはいいのですが、途中経過を記録するの忘れてしまいました!

…なので、もう一つ別の眼鏡用に挑戦した老眼鏡での途中記録写真を載せます。

これ(↑)に、形がとても似ているこの(↓)ウェリントン型の老眼鏡…

これも100均ですが、これをプラスしてみます。

まず、老眼鏡のヒンジ(↓)のネジを外し…

ツルを取り除きます。

ローターでこのヒンジのブロック(↓)を切り外します。

続いて鼻当て近くのフレームにマスキングして、不要なところを削り取ります。

すっきりしました(↓)。

そして
ツルの付け根に穴を開けて、ゼムクリップをチョコチョコっと曲げて挿し込みできあがったのがこれ(↓)です。

眼鏡に装着すると、この通り(↓)です。

正面からみるぶんにはさほど変ではないですよね?

これを角度をつけて見るとちょっと存在感が増します。

まあ、こんな感じの工程を施した冒頭の老眼鏡はこんな感じで眼鏡に装着されます。

こっちの老眼鏡は、ひと手間加えられており、鼻当てのところにもクリップの針金を挿し込んであります。

この眼鏡には、マグネットで脱着可能なサングラスが付属しています。

そのサングラスを眼鏡に装着するときに機能するマグネットが眼鏡側にあるので、それを活用したものです。

そのパーツがないと、レンズが眼鏡に固定しないので、下を向いたときなどパタパタとフリップしてしまうんです。

そういうわけで黒縁の眼鏡の方はまだ実用的ではないため保留中なのです。

もしかしたら、クリップでアタッチするタイプの老眼レンズやサングラスがあるじゃないかという人がいるかもしれません。

それは以前使ってたんですが、やっぱりレンズを挟む式なので、少しずつ傷がついていくんですね。

それがイヤなのです。

また、見た目もイマイチ。

今回のこの工作も、レンズが2枚重なっているので、違和感を与えるかもしれません(自分と対面する人に対してです)。

でも少なくとも正面から見る限り、多少の違和感を与えても、不細工さは免れるんじゃないかなー、免れたらいいなーと思って作りました。

ということで、できあがりです。

正直なところ、簡単には外れませんが、やはり完璧には固定しないので、カチカチとフリップしては戻る音がすることもありますね。

ぼくはこれのサングラス版を作りたいと思っていますが、眼鏡側には一切の細工をしたり傷つけない方法がなかなか見つからず、試行錯誤を繰り返しているところです。

ド近眼用脱着式老眼鏡 ー 眼鏡との関係

最近では、何かと差別的だとか言われそうな名詞なのか、若年者でも使うことが多くなってきたからなのか知りませんが、「老眼鏡」が英語から拝借した「リーディンググラス」という言葉で売られていることが多いような気がします。

改めて「老眼鏡」という言葉をマジマジと読むと、確かに直接的でグサッときそうな名称ですが、もちろん悪気を持ってつけられた名詞ではないと思うんです。

子供のころから聞いていた人にとってみたらわかりやすい。

スチュワーデスがCAとかキャビンアテンダントとかって言うようになって、いきなり気を遣うようになった時の感覚に似ているような気がするのはぼくだけでしょうか。

恐怖の視力検査

ぼくは小さい時から目が悪く、毎年の健康診断での視力検査が特に恐怖でした。

親としても、息子の眼が悪く、子供の時から眼鏡を掛けさせるのが可哀想に思っていたようで、いろいろ視力回復のために手を打ってくれましたが、当人としては、だからといって怒られたとかいうわけではありませんが、そんな親の真剣さが、自分の資質不足残念がっているような、管理不足を指摘されているようで怖かったんです。

子供ながらにですよ。

最終的には眼鏡ではなく、コンタクトから矯正生活が始まりました。

その後の進行具合はことのほか速く、30歳になったころには既に0.1に到達し、底に到達したと思っていたら、まだ先があることを知りました。

その頃、疑問に思っていたことがありました。

それは近眼の人、特にド近眼の人は老眼になるのだろうか?ならないのではないか?

だって、老眼の人は近くが見えないんでしょ?

ぼくは遠くが見えないのです。

ド近眼が言う「遠く」というのは、目前20cmより先のことです。

そっから先に置かれた本や新聞の文字は読めません。

近眼用の凹レンズを必要とする人が、虫眼鏡のような凸レンズを使用する老眼鏡を必要とするわけがない。

そう思ってました。

近眼とド近眼は違う?

時を高校時代に戻します。

その頃のぼくの視力はまだ普通の近視程度でした。

当時、数学の先生が掛けていた眼鏡が2焦点眼鏡っていうんでしょうか。

レンズの下の方に度の違う小さなレンズが埋め込まれている眼鏡で、そのレンズが老眼用だということは分かってました。

それは眼鏡を掛け変えなくても、視線を下に向けるだけでいい仕様になっている眼鏡で、とても画期的だと思った記憶があります。

その記憶は事あるごとに蘇ってきて、自分が老眼になったら同じような仕様の眼鏡を作るようになるのかなと想像していました。

しかし、視力0.1を大きく下回り裸眼では20cm先の文字も読めないぐらいになったとき、あの2焦点レンズの眼鏡は近眼でも、ある程度近くは見えるぐらいの「良い」近眼の人にしか使えないじゃないか。

だって、あの小窓は所詮近くのものを見る老眼鏡でしょ?

それに、だいたい眼鏡を掛けている普通の近視の人が老眼になるとまず、近くを見るとき眼鏡を外しますよね。

それで読めるようになるんですよね?

その程度の近視なんでしょ?

さらに老眼が進んだとき老眼鏡を掛けるのだから老眼鏡というものは、今後ある程度近視が回復しない限り使うはずがない。

要するに単なる近眼とド近眼は違うんだ。

と思うようになってきました。

時は過ぎ

前述のとおり、ぼくぐらいド近眼になると、たとえ20cm先の本を読むにも眼鏡が必要なんです。

そしてそれより近いものは、裸眼でも見えましたが、眼鏡を掛けてても見えてたのです。

ところが、ある時から予想だにしていなかった事が起きました。

例えば、足の裏に刺さったトゲを探したり、まあ手でもいいんですが、何かが刺さっているかのようにチクチクするとき、相当、顔や眼をそのモノに近づけますよね。

それが眼鏡を掛けていても見えていたものが見えにくくなってきた…

ピントが合いにくくなってきたのを感じたのです。

そう、なんと、近くが見えなくなり始めたのです。

ナルホド、これが老眼か…

いや、ちょっと寝不足だからやろ…

トゲなんて滅多に刺さるものじゃないので、そうやって5年ぐらいは自分をごまかせたものの、やっぱり見えづらさは確実になってきました。

その場合、文字を読むときはある程度想像で賄えるので、ごまかせちゃうのですが、細かいモノを触ったり作る際には、ハッキリ見えないと誤差が大きくなるし、工作で切削工具を使う場合は危険なこともあります。

そういう意味で、近くのものにもピントが合わなくなってきてからは、普通の近眼の人のように眼鏡を外して見ないと見えなくなりました。

しかし、裸眼ではモノを20cm以内に寄せなければ見えないので、足の裏などのトゲはとても対処が難しくなったんです。

特に切削工具を使う場合は、削りカスや切れ端の跳ね返りに注意しないとかなり危険になってきました。

ヒラメキ

そしてさらに時は過ぎたある日、もしかしたら、眼鏡を掛けた状態にさらに老眼鏡を掛けたら良く見えるのか…?

そう思って、職場のカウンターに置いてある来客用の老眼鏡を眼鏡の上にあてがって覗いてみました。

すると、まさか!

近くが見えるではないですか!

そういうことか…

今、近眼用の眼鏡を掛けていますが、裸眼プラス近視用眼鏡の状態が普通の人の老眼状態と同じなわけだ、ということがわかったのです。

ついに老眼鏡のお世話になる時が来たか…

見えないのに見栄っ張り

ここで再びぼくの親の話しで横路に逸れてしまい恐縮ですが、彼らとZOOMをやっていたり文書や何かをシェアして話をしているときのことです。

画面を通して共有している画面上の文字がちゃんと見えてないとか読めてないということがよくあるのです。

こっちは彼らと認識を共有しているつもりで話しているのに、何か反応がおかしい。

そういう時は、一生懸命目に力を入れて見てるんですよね。

それで見えてるならいいけど、見えているのか確かめようとすると

「こんな小さい字じゃ見えないよ」

とか、しばらく続けていると

「あ~、疲れた」

とか言い出すんですよ。

見えてなかったんかい!

じやあ、今までの話わかってないんじゃないの?

って訊くと

「…」

と返事を濁す。

ぼくとしても、大変だなと同情していましたが、よく考えると

「ちょっと待って、眼鏡取ってくる」

ということを、自ら言ったためしがないんです。

こっちから

「眼鏡かければいいじゃん」

というと、

「あれ?何処置いてたかな」

とか言って、取りに行ったと思ったらなかなか戻って来ないんです。

そういうことがあるから、次のZOOMミーティングのときは眼鏡を手元に置いているかと思いきや、まるで初めての体験かというくらい同じ反応をするんです。

さらに良く思い出すと、彼らが老眼鏡を掛けて本を読んでるとこ見たことないと思いました。

まあ、父親は本を読んでるところ自体見たことないんですけどね。

そういったことを鑑みると、眼鏡を掛けることが体に悪いと思っているか、自分はまだ老眼じゃないと言い張りたいように思えてきました。

眼鏡on眼鏡

本題に戻りまして、ぼくとしては、自分の眼鏡の上に老眼鏡を掛けると見えるようになることがスゴイ発見でした。

これなら自分用の老眼鏡を作ろうと思い立ちました。

前置きが長くなりましたが、ここからが今回の本題の本題です。

別にぼくの視力論議はどうでもいいんです。

実際の運用としては、この「老眼鏡on近視用眼鏡」の製作を思い付いたと同時期に、遠近両用眼鏡を新調していました。

ですので、その眼鏡を使えば遠くも本の文字もよく見えますが、本を読むときは常に視線を下にしてますし、読書以外の手元の作業をする際には、視線の位置を気にしないでいたいものです。

要するに、単焦点の普通の老眼鏡も有れば便利なんですね。

必要な人いないのか?

ところで、眼鏡に縁(えん)のない人は知らないかもしれませんが、眼鏡には、調光レンズを使って、紫外線への露出の多い屋外では色が付くサングラスと一体化したものがあります。

または、眼鏡に取外しのできるサングラスを重ねられる構造の商品もあります。

眼鏡にクリップで挟み、フリップできるタイプのものはあります。

でもクリップタイプはあまり好きじゃありません。

あとは、普通の近視用の眼鏡を外さずに掛けたままレンズ部分をフリップさせ裸眼を露出できるものもありますね。

でも、なぜかフリップできる老眼鏡は見たことないんです。

今、ふと思いましたが、フリップ型のサングラスを老眼鏡にしてもらえるオプションをつけているショップはあるのだろうか?

それができるならばぼくの工作は不要になります。

まあ、あまりオプション費用がかからないことが前提ですが…

本題に入りつつ、まだゴタゴタ書いてちょっと長くなりすぎたので、本題は次回にしましょう。

翻訳するとは・・・母国語⇔外国語の往復?

翻訳するという作業をみなさんはどのように感じているでしょうか。

...

いきなり、なんのこっちゃという感じですよね。

うん。

今日はちょっとマニアックな独り言をしたいと思います。

翻訳のイメージです。

例えば自分の母国語は日本語で、外国語として英語も使えますという状況で、翻訳するという作業をイメージしたとき、どのようなことが頭に浮かびますか。

タイトルに書いたように

「日本語で思っていることを英語に置き換える。またはその逆」

というイメージをする人が多いんじゃないかと思って、それを「日本語⇔英語」で表してみたわけです。

ん?

で?

ぼくは最初はそういうイメージだったんで、多くの人もそういうイメージなんじゃないかと思って書いてみました。

それを前提として少し話を進めてみます。

英語が使えるようになったころはそういうイメージだったんですが、それが、ある日、というか翻訳をしてしばらくして、他の人の翻訳の校正を始めたらそのイメージでは、「翻訳」をやって行くことはできないことに気が付いたのです。

特に日本語から英語に訳す英語ネイティブのクロスチェックをしていて感じましたね。

その前に…

「英会話」をするなら

ある程度まで英語ができるようになってくると、アドバイスとして、よく、「言いたいことは英語で考えろ」って言われませんか?

日本語を考えてそれを英語にするんじゃなくて、最初から英語で考える訓練をするとさらに英語ができるようになるというアドバイスですね。

それって、自分の頭の中から湧き出る言葉を日本語ではなくて、最初から英語にするということなので、まあ自分が作り出す文章なわけです。

つまりオリジナルの文章、会話や日記で自分の思いを表現する場合の話ですよね。

「翻訳/通訳」をするなら

それでは、英語から日本語、またはその逆に翻訳や通訳する、つまり訳すときはどうするかってことを考えたいと思います。

それが先程の「日本語⇔英語」の作業をすることですね。

まず翻訳とまで行かずとも、訳すということは、誰かが書いた(または言った)言葉からスタートしますよね。

日英なら日本語を頭に思い浮かべて、文章を分析します。主語が何で動詞が何で・・・という具合に。

そして、「使う単語や文法を・・・」って考えるのが普通かと思います。

おそらく取り扱う文章の大部分はそう言った機械的な作業で問題ないでしょう。

まあ、最初はたいていそれでことが済むことが多いんですが、それをやっているだけだと、やがて行き詰るときがくる。

ぼくには、実際に来た。

ということを言いたかったんです。

英語⇔「事柄・現象」⇔日本語

日本語を見たり聞いたりして、それを単に英語に「置き換える」ようなことをやっていると変な訳になることがあるということです。

わかりやすい例で行くと、

「今、誰がボールを持っていますか。」

という日本語を英語にするとします。

「持つ」は「have」や「hold」などを使うとして、「ボール」は最初に思いついた単語が「ball」だとして、そこから出来上がる英語が

"Who holds the ball right now?"

だとします。

それぞれの単語も対応しているし文法も正しいですね。

意味も通じます。

でも、これがビジネスというシチュエーションだとしたらどうですか。

つまり、文章的には割と口語的な表現かも知れませんが、メールなどの文面であれば

「今、誰がボールを持っていますか。」

としか書いてなくても、

「今、(この件について)誰がボールを持っていますか。(早く処理してください)」

という文脈の中だったらそのままでは変ですよね。

"Who are we waiting on right now?"

あたりが自然な英文になるでしょう。

そういうことです。

臨場感を持って訳しているか

だから、日本語が頭に浮かんでそれを訳してみるとき、その日本語が表す状況を思い浮かべて、それを英語にするということをしないといけないということです。

これはできる人は当たり前のようにできるんでしょうけど、ぼくのように時間がかかる人の方が結構多いんじゃないでしょうか。

英語ネイティブを含めてかなり両言語に卓越している人でもそういう人が多くて、簡単に日本語から英語にできて、それ自体は文法も間違ってないし、文章単体としてみたら意味は通る。

でも翻訳者としてどうでしょう。

「文脈にあってないだろ!」ってことがしばしばあって、それは何度注意してもなかなか改善しないんです。

言うまでもないかもしれませんが、英語ネイティブの中にもスゴイ翻訳者はもちろんいて、そういった変換をサッとできたり、日本人以上に日本人の心を持っている翻訳者から日本人だと見落としそうな注釈を付けてくれる方もいることは書いておきたいと思います。

さて、英語ネイティブによって日本語から英語に翻訳された訳文をチェックしていると、結構こういう訳に遭遇するのですが、訳者に「この英文は自然ですか?私が思うに…」と、そう思った理由とともに失礼にならないように差戻しすると修正されてくるのです。

差し戻されてようやく頭の中に状況が描かれるんですね。

まあ、ほとんどの場合、不自然であることを素直に認めてくれることが救いです。

これは、まだ翻訳経験の浅い英語ネイティブだけでなく、日本語検定のN1を持っている人や、ほぼ完璧なバイリンガルでも訳すという作業をするとそうなってしまう人がいます。

訳しているドキュメントが自分の精通している分野だと、おそらくその状況が頭の中に正しく前提を作り上げて、それを中心に日本語から英語へと変換していくんでおかしなことにはならないんです。

要はどのくらい原文ドキュメントの世界に没入できるかによるんですね。

翻訳者は役者?

簡単に言うと、その文章を書いた人に憑依するってことですね。役者みたいなものかもしれません。

しかし、精通してなくても、前提を確認して、せめてその場面をしっかり想像することが大事なんです。

単に母国語と外国語を行ったり来たりするだけでは翻訳にはなりません。

母国語と外国語の間にある、言葉になっていないその思いを感じてモクモクと成長させて作り上げることが大事なんです。

そこからそれを母国語にどうやって表現するかという作業をすればより良い翻訳になると思っています。

そのためにリサーチが大切になって来るんですよね。

そのドキュメントで扱っている内容を取り込んで憑依する準備をする。

単に「専門用語」を「英語では何ていうのかなあ~」とか言うことを知るだけではなく、その題材の空気感を得ていくためにするんですね。

Between the words and the heart

母国語と外国語の間を考えるということは、日本語だけで考えているときにも似たような作業をすることがあります。

とても良いものや美しいもの、逆に嫌なことなどを人に訊かれて「言葉にならない」って言ったりしますよね。

あれなんか正に日本語なんだったらわかるだろ?

って言いたくなるところだと思うんですが、思っていることと母国語の間が上手く繋がっていないってことですね。

Between the words and the heart

というタイトルの曲があります。

これは、ぼくが大好きな小田さん(小田和正さん)の歌なんですが、そこには

「言葉と心の間、それは君しかわからない」

という一節があります。

とにかく今思っていることを言葉にしないと伝わらないよ、と言っていると思うんですが、まあ、この場合は、単に

「黙ってたら伝わらないよ」

というだけかもしれませんが、言葉にしたことで誤解が生じることもあるわけで、そんなときはもっと表面的なことじゃなくてしっかりと心に向き合ってその心情に相応しい言葉を探して伝える努力をしよう、と言っているのではないかと思ったわけです。

つまり、日本語だけの場合でも、その場、その場面の状況などの心の中で描いた絵と言葉の間で行ったり来たりしているということです。

おそらく、英語とドイツ語、スペイン語とイタリア語やフランス語といった同じ言語ルートを持つ言語間ではその差が大分少なく、単純な言葉の置き換えで済むケースが多いでしょう。

しかし日本語とヨーロッパ言語のような組み合わせの翻訳では、言語の「気持ち化」や「情景化」、さらに、そこからの言語化という作業が必要不可欠になります。

たかがボール、されどボール

さて、先程の

「今、誰がボールを持っていますか。」

についてもう少し書いてみます。

日本語の「ボール」は発言の順番を表すバトンのようなものの比喩として使われており、英語でも

“The ball is in your court.”(あなたの番だ)

というように使うようですが、ボールをそのように使うのは、この言い回しに限定された表現のようです。

ballをそれ以外の使い方をすると、不自然となり、相手にいろいろ考えさせてしまうみたいなので比喩は要注意です。

もしも

Who hold the ball now?

と言った場合、誰の行為を待っているのか、というよりは、誰に権限や責任があるか?といった方向で解釈される可能性が高いようです。

この日本語の使い方を知っているかどうかということが大きいと思いますが、知らなければ不自然さは感じると思うんですね。

でも不自然さを感じた時にいかにそれにこだわるかが大切なんです。

普段の会話でしたら多少聞き流して、後で知るってことも成長の過程だと思いますが、翻訳をしているとそういうわけにはいきません。

ここで出した例は簡単な分かりやすいものですが、とにかく翻訳とは単に二言語間の往復ではないということです。

以上、マニアックなお話しでした。

動詞の「形」と「意味」の非同一性

しょうもない話ではありますが、「仮定法現在」とか「仮定法過去完了」などのややこしい名前はともかく、「現在形」とか「過去形」という名前について、最近ちょっと物申したくなってきているんですね。

これって前者ふたつは簡単に言うと「動詞の原形を使った仮定の表現方法」や「過去完了形を使った仮定の表現方法」という意味ですよね。

一方、「現在形」や「過去形」は名前はシンプルですが、その使い道が多くないですかね。

というのは、ある動作を表現しようとしたとき、それが現在のことだから動詞の現在形を使うのかなと思って使ったら違う意味で解釈されたとか、英語の動詞が過去形だからその文章の意味は過去のことかと思ったら違ったとかそういうことです。

言うまでもなくこれらの文法用語は、動詞の-ing形や-ed形、またそれらと他の単語との組み合わせや並べ方といった「形」につけられた名前です。

しかし「名は体を表す」ではなく、「この名は体の一部を表す」であって、「具体的に一つの〇〇を表現するための形」ではないということです。

つまり表現できることの代表選手を名前として付けられているのです。

ずいぶん前に英語の勉強をするときは現在形より過去形の方がシンプルで分かりやすいからそっちから手を付けた方がいいのではないかという記事を書きました。

そして先月、助動詞の過去形について議論しました。

こういうテーマの核心は、「〜形」という文法用語と、その意味の不一致は、誤解を生む原因でもあるのではないかと思うんですね。

きっとこの不満はぼく特有のものではないと思うんです。

「過去形/現在形」の守備範囲

大概の言語の動詞には「現在形」や「過去形」があり、それらの意味するところは「ほとんど」がその名称の通りです。

そして、英語に関しては、現在形の概念より過去形の概念の方がシンプルなので、そちらを先に学ぶ方がいいのではないか、というのがその時の議論でした。

今回は、動詞の形と意味の話です。

一つの形を実際には、かなり拡張した意味(用法)で使いますよね。

前回の助動詞の過去形の話で言えば、

「過去形」≠ 過去の事実のみ

(couldが常に「できた」を表すわけではなく、mightが「かもしれなかった」を表すわけではない)

ということです。

さらに-edを付けた過去分詞形なんか、規則変化する動詞だったら見た目は過去形と同じです。

「過去〇〇」だといっても、その意味が過去であるとは限りません。

特に受動態は時間的な概念はないので、用語に引きづられやすい人はそういうところで「ナゼ?」と思ってしまうのではないでしょうか。

日本語の動詞の現在形でいえば

「現在形」≠ 不変の事実のみ

(「これからする」ことも表現できる)

そういう事実があるために、言語学習者は最初の関門に引っかかるんだと思います。

やっぱり新しい言語を勉強していて、動詞の現在形とか過去形と聞いて、いくつか文章を作れば、その時制の名前と意味がイコールで結ばれてしまうことが多いと思うんです。

「最初はとにかく覚えろ」といった姿勢で教えられたら、まあ話の筋は通って聞こえるから、そのように覚えて支障はないと思うのも無理はないと思います。

しかしやっとその考えが定着して、自分でだんだんと文章を作るようになっていくと、壁にぶち当たるんです。

レッテルの束縛

「もしも○○だったら、△△だったろうに」とか、仮定の話をする時は過去形を使うのだなど、「過去形の新たなルール」だとか、「例外」だとか「助動詞の過去形は他の動詞の過去形とは切り分けて考えるのだ」などと言われると若干イラっと来ると思うのですがどうでしょうか。

感覚の良い人は、日本語でも、「〇〇だったら」というように仮定の場合は「過去形」と同じ形に活用しますが、この動詞は時間的な過去を表していないということに気がついて、妥協することができるかもしれません。

だいたい、

「仮定」を表すときは「過去形」を使う

とか、

「受動態」の文章では、「過去分詞形」を使い、多くの動詞は過去分詞形と過去形が同じだ

とか

「未来」を表すときは「現在進行形」も使える

とか言われたら、何でその形の名前を「仮定形」にしなかったのか、とか「未来形」にしなかったんだ、とひと言言いたくなると思うんですよね。

形式に具体的な意味や機能を連想させる名前を付けるからこんがらがる。

そうなると、学習者が形式名と意味は多くの場合一致しないことを体感的に得られるかが上達のカギとなります。

上書きが得意な人ならいいけど、ぼくのような苦手な人は、無意識のうちにその名前が表す意味を引きずってしまって、理解を邪魔されたり、症状がひどい人の場合はどうして「現在形」なのに未来を表すのかという疑問から抜け出せなくなるんですね。

鬼滅の刃を参考に

そこでぼくが提案したいのは、動詞の形の名称をもっと抽象的にして、例えば…鬼滅の刃のように、今の現在形を「壱の型」、過去形を「弐の型」とかにしておくのです。

例えば過去表現には「弐の型」を使うと学び、新しい単元で、例えば現在の仮定を表現する時にも「弐の型」が使えるといった具合に整理するのです。

つまり、時制や機能が絡んだ名前をやめて、単なる記号の名前をつけるのです。

そうすれば名前に引っ張られにくくなるので、少しは記憶を上書きしやすいのではないかと思うんです。

レッテル剥がし

基本的に人間はレッテル貼りが好きな生き物だと思うので、一度名前を付けるとその執着力は絶大なんですよね。

イメージで結びつけられたものは改訂するのが本当に難しいです。

特に日本人は、一度決まったものはできるだけ変更したくないと思うんです。

将来的に変更される可能性があるなら最初からそう言っておいてくれと…

しかし必ず書き換えがあるとわかっているなら、今から教えておいてくれ…

そういうふうに考える人が多いと思うんです。

そしてそこに初めから足を踏み入れると多くの人がアレルギー反応を起こすのではないでしょうか。

とはいえ…自分なら

そんな提言をしても何も変わらないのが現実です。

そうなったら、動詞の形の「用語」を真に受けるな、ということを、学習前に徹底的に教える。

実際に教える際は、「過ぎ去った事実を表現するには基本的には動詞の語尾に-edをつけるが、この形はほかの表現にも使う」といった説明で活用の方法を教え、「過去形」という言葉を使わない。

しかし、どこかで必ず「過去形」といった用語に遭遇することがあるはずなので、「『過去形』という名前を聞いても過ぎ去った事実だけを表すわけではなく、いろいろな意味の表現に使う」ということをしっかり理解してもらう。

学習意欲がある人を相手にしているなら、「色々な意味で『距離』を持たせたいときに使う」とか言って匂わす。

…という方針を取るでしょう。

別に今、誰かに言語を教えているというわけではありませんが、もし教えることがあったらどうやって教えるのがいいんだろうかとつい考えることが多々あります。

久しぶりの興奮剤!まるでマッドサイエンティスト!?ープラリペア

プラスチック部品が破損したときの絶望感て結構強くないですか。

ほんの小さな部品の不可逆的な破損。

もうもとには戻らない、直らない、修理に出すことも考えられるが、おそらくその部品は交換となるだろう、でもかなり値が張りそう…。

それなら諦めるしかない。

こういった小さな部品の破損のために製品全体を交換、または買い替えなければならないだろうというルートが一瞬のうちに頭を過ぎる…

絶望感

ぼくは、基本的に何かが壊れたり破損したときは、まず自分で修理することをあれこれ考えます。

でも、そういった破損部分がプラスチック製で、何らかの力の負荷が掛かるものでありながら、薄かったり細かったり、ほかの部分と連携する部品であれば、早めに白旗をあげます。

補強することも考えますが、プラスチック製となると適当な補強材を見つけたり作るのはぼくにはほぼ無理です。

もうお手上げ状態です。

YouTube動画に釘付け

ある日、YouTube動画をみていたら、エアコンのフィルターカバーのヒンジというんでしょうか。

蝶番ではありませんが、本体とカバーを繋ぐ関節であり完全に折れて取れてしまった一部をカバーに繋ぎ直している動画を見ました。

そのYouTuberは細い針金を刺す穴を取れたパーツとカバーに開け、両部位に針金を通し補強した上で瞬間接着剤で接合していました。

実際にそんなんで十分な強度を持って繋がるのか懐疑的でしたが、そのYouTuberの動画が変に編集されたものでなければカバーを本体にはめ戻した後、何度も開閉しても接着部分は剥がれないようでした。

瞬間接着剤の強度さえあれば、とても合理的で信憑性のあるもので、その動画に釘付けになってしまったのです。

試したいぞ!

その動画と前後するように、プラスチック部品の破損を補修する方法を紹介する動画がたくさん流れてきました。

おそらくぼくのDIYの視聴傾向からアルゴリズムで同様の動画がおすすめとして流れてきているのでしょうね。

それにまんまと乗っけられているだけでなく、釘付けにすらされていたわけです。

動画を観ていた時点では、実際にそういう必要性はぼくにはなかったのですが、今まで、こういった破損で諦めていたケースがいくつもあったはずです。

次、こういう破損に出会ったらぜひとも試したいと思いました。

救世主登場

そして、そういった「修理系動画」を観ていたら、ある商品に目を奪われてしまいました。

それが武藤商事製のプラリペアというものでした。

プラリペアはプラスチック造形補修接着剤というらしく、接着の原理は金属の溶接のように溶着させるみたいです。

熱を使ったりコテを使いませんが、接続したい箇所を溶剤がわずかに溶かして溶剤そのものが部材となり固めてくっつけるようでした。

しかしプラリペアは液体のモノマーいう溶剤と粉末のポリマーという固体樹脂でこうせいされていますが、液体のモノマーだけでは、プラスチックを少し溶かす程度で、やはり強度は出ないようです。

ぼくはこの商品にとても興味を惹かれ早速購入してしまいました。

破損物探し

プラリペアを知って、この商品の威力を早く味わいたいと思っていたところへちょうどいい破損物が舞い込んできました。

ある日、ぼくの勤務先で使われている空気清浄機の水を入れるタンクの取っ手が壊れたといって、従業員がザワザワしていたんですね。

その破損部分は、ネジを止める薄いタブで、明らかに負荷のかかる部位でした。

過去の自分を含め、普通に考えれば修理不能な壊れ方です。

でも、その時は直せるかもという思いでした。

ぼくとしては格好の実験台が現れたと思いましたが、まだ未経験なので自信を持って直せますとは言えませんでした。

とはいえ、外観に影響するものではないので多少失敗を繰り返し汚くなっても繋ぐことはできそうな気はしてました。

その後その空気清浄機はしばらく放置されていたので、彼らも手の打ちようがないのだろうと判断し、その空気清浄機の責任者に「ちょっと修理を試してみてもいいですか」と直らない可能性も示唆しながら修理の許可を求め、GOを得ました。

初めてのプラリペアだし、小さいものなので、若干の不安はあったので、動画で見た針金の補強材を刺すことも加えて修理に挑みました。

こんな感じに細い針金を突き刺し、プラリペアを塗布。

プラリペアはその溶剤が黒、白、クリアの3色展開で、ぼくはクリアを買いました。

そのため継ぎ目が凹んでいるように見えるので少し雑に見えますが、下図のように初めての試行にしてはうまく繋ぎ直せました。

そしてプラリペアを使ったことや、針を補強材に使って修理したことを責任者に伝えると「そんな物があるんだ!すごいな!これ、絶対無理だと思ったよ」と大変感心されてしまいました。

あまりにも感心されたので、「このプラリペアがすごいんですよ」と少し謙虚に言うと「でも、あんな細っそい穴を開けてやるなんて他の人じゃむりよ」と、どちらかというとそっちの方を褒められてしまいました。

エアコンのカバー

そんなんで調子に乗ったぼくは、次なる破損を待っていました。

数日後、出社するとまたオフィスで何やら接着剤やらカッティングボードやらプラバンやらを机の上に置いてコソコソ話をしているじゃないですか。

とりあえず一目で、また何かを直そうとしてることはわかりました。

そしてわざとその横を通り過ぎながら、横目でコッソリ伺ってみると、今度はこんなものを扱っていました。

これはエアコンのルーバーで、破損していたのは、エアコン本体と接するルーバーを開閉させる軸を支える部分です。

聞くところによると、接着剤で付けようとしているけど不安定だからプラバンで補強しようとしているとのこと。

上図から取れてしまった部分はこれ↓でした。

これを接着剤で付けようとしていたましたが、まず無理だと思い、自分の方針の方がまだマシだと思ったので、今回はすぐに修理の請負を申し出ました。

そして許可を得ました。

今回も上図中2つの赤丸のように針金を通してプラリペアを使うことにしました。

しかし今回の針金の目的は補強ではなく、位置の固定のためです。

というのも、ルーバー自体が薄すぎて、針金を十分な深さまで挿入することはできません。

しかし、この部分はルーバーをスウィングさせるための軸となる部分なので3次元的な正確な座標が重要だと思ったので、くっつける際にグラついてたらズレる可能性があったためです。

順番が前後しますが、まずはこの破損部に0.6mmのドリルで下図↓のように穴を開けました。

そこに針金を刺したのが前の写真です。

そして接合の準備として、左右のルーバーを入れ替えて机に置き、テープで張り合わせ固定します。

その際、下図AとBは本来エアコンの両端に来て、軸を一直線に固定するものですが、Aが取れてしまっているため、その位置を合わせるために、座標の基準となるBの横に置き垂直な軸がずれないよう筒の部分も簡単にテープで固定しました。

修理完了

プラリペアは特殊な粉末と液体を接合個所に塗布するのですが、それには付属の針を使って接着剤のように塗ります。

5分ぐらいで硬化し始めるので、その間の写真は撮れてないのですが、接合後、基準としていたB側のルーバーとくっつけていたテープを剥がし取り外したのが下の写真です。

この薄い部品が、元のようにしっかりとグラグラしないぐらい固く固定されるのです。

これってすごくないですか。

エアコン本体に戻すとこんな感じ。

ほんとに一体化したような固定化なんですよ。

そして実際にエアコンに取り付けてもしっかりスムーズにスイングしました。

何、このヤバイ感覚

職場の人にはその感動はもう伝わらず、ありがたみもないのか、前回ほどの賛美は特にありませんでしたが、これは自己マンの世界ですね。

一つ成功体験が増え、こんなふうになるのだという感触も得られて少し自信がつきました。

もう、破損することもネガティブには感じなくなった、逆に破損を待ってしまうほど興奮させてくれる商品です。

これって、まさか、ぼくにはマッドサイエンティストの気があるのか!?

イングリッシュ・ドクターの非常識な英語学(1)時間感覚が非常識な助動詞 

英語の学習者の中でも、助動詞が苦手な人ってどれぐらいいるんですかね?

ぼくは初めの頃から(つまり中学生の頃から)助動詞について特に苦手意識を持った記憶はないのですが、慢性的な扱いにくさをちょっ〜とだけ感じながら、ここ最近まで来ていました。

扱いにくさというより、納得のしにくさというんですかね、運用する上ではさほど問題にはならないけど、文法的な説明を自信を持ってできないモヤッと感覚がずっとありました。

例えば

He may arrive in Tokyo today.

といえば、

「彼は今日、東京に到着するかもしれない。」

ですが、

*He might arrive in Tokyo yesterday.

といっても

「彼は昨日、東京に到着したかもしれない。」

とはならないうえ、正しくもない文章ですよね。

過去形を使ってるのに意味が時間的に過去にならないという時制を無視したような扱い方の説明ができないことにモヤついていたのです。

今となっては、感覚的にそういうもんだとなりますが、助動詞を覚えたてのころは、意味わからん状態だったのを覚えてます。

ただひたすら覚えようとして、覚えましたが英語が苦手な人の中には、ずっとその感覚が残っている人もいることでしょう。

そんな慢性的助動詞文法放ったらかし症にやっとメスを入れてくれた"ドクター"が現れたのです。

そして、このモヤっと感の根はかなり深いところにまで延びていることがわかりました。

その方を紹介したいと思います。

イングリッシュドクター

西澤ロイ"先生"です。

まあ、そこまで気を遣う必要はないと思いますが、もちろん彼は本当の医師ではありません。

何かの博士号を持っているわけでもないようです。

英語ができない人が抱える状況を病気になぞらえて、その「英語病」を処置するブラックジャックのような方とでもいうんでしょうかね。

英語に悩む学習者が陥っている状況にこういった「英語疾患名」を命名し、その解決の糸口となる解説を処方箋として提供しているイングリッシュドクターを営んでいる方です。

彼が命名している病名や症状名にはこういったものがあります。

  • 重箱コーナー病
  • ジパング症候群
  • ウノミ―(暗記病)
  • キャッチボール症候群
  • もやしボディー症
  • 解きまくり症候群
  • 推理リスニング症
  • ガリ勉症候群
  • 悪銭湯イイ!加減病
  • TOEICテクニック熱
  • サイレント学習症
  • 疑問ネグレクト症
  • リピートプラクティス欠乏症
  • 英語deつぶやかず症候群
  • 永遠のスーパーサブ症
  • ボリューム潤沢伸びしろ症
  • ド根性スタディ症
  • エスカレーター学習症

などなど…

基本的に彼は、勉強しても英語が話せない、使えない「沼」にハマった学習者が主なるターゲットだと思うので、ぼくはそう言う意味では西澤さんの患者ではありません。

でも、彼のスタンスは「正しい」英語を教えるということではなく、言語学に基づいて「納得できる」解説をすることにあり、その説明には感銘を受けるものがあります。

ロイ先生のYouTube動画を観るようになった経緯は忘れてしまいましたが、そのキャラ作りの怪しさとはミスマッチな物腰の低さというか、目立ちたがり屋ではないオーラに惹かれたことは覚えています。

そして、言語学を基盤にした分析や、言語習得を文法的な正確性ではなく、その運用能力の上達に定めている点も共鳴できたことも、見続けてしまっている理由の一つですね。

まあ、そんなこんなで、先生のYouTube動画は、アラカルト的にそれぞれ20分前後で問題を説明されているので見易く、取り敢えず初めから観ていたら、ある時、この問題が溶解したのです。

上でも書きましたが、ぼくが長いこと患っていた英語疾患は助動詞についてで、具体的にはその時制の捉え方です。

西澤さんも助動詞に関して多く質問を受けているようで、動画も複数あげています。

意味を考えて使っていく分には、そんなにややこしいことはないと思うのですが、助「動詞」という名前で動詞っぽく、現在形や過去形があるくせに、意味としては全く時制を無視したように運用することにずっと惑わされてきました。

そしてその説明が十分にされているものを見たことがありませんでした。

二段階の理解

この疾患を解決するにあたり、ドクターロイのいくつかの動画が参考になりました。

いくつかのテーマが絡んでいるので一筋縄ではいかなかったんですね。

順に説明していこうと思います。

youtu.be

動詞の時制の本質

まず、動詞が時制を持つという意味の本当の理解です。

過去に記事にしたこともありますが、当然と言えば当然すぎることだからなのか、その頃まで特に気にしなかったテーマです。

英語の時制を持った動詞は事実を表すということ。

現在の事実や過去の事実です。

事実だと「表明している」と言った方がいいでしょうか。

と言うのは、その内容が本当に事実であることを言い表しているのではなく、発言者があることを事実だと認識していることを表しており、もしもそれが事実ではなかったら、その発言者は単にウソを言っているという意味になるという理屈だからです。

例えば、現在形でのeatやwatchesなどを使った文章は、その内容の真実性は問題ではなく、文章の主語が普段から食べているとか普段から見ていることを事実だと発言者が認識していることを表現しているのです。

ateやwatched と言えば、過去に食べたり観た事実があると認識していることを表します。

逆に、時制のない動詞、つまり原形の動詞は、事実を表しません。

英語の動詞に未来時制としての活用形がないことがその現れなのです。

そこで「未来のことを表現するには助動詞のwill を使う」と習うわけです。

例えば

I will do it.

のようにwillを使いますが、doは原形ですよね。

未来のことはまだ実現していないわけなので、発話時点で事実だと言えないからです。

でもdo する「意志(will)」があるのは事実だということです。

こういった概念ってわかった気になっていて、実際にはわかってない人、結構いるんじゃないですか?

この概念は助動詞の理解に限らずいろいろな文法の躓きから立ち直るヒントになっています。

助動詞が表すこと

次に、助動詞ですが、言語学的には、「法助動詞」が正式な用語のようです。

まあ、そんなことはどうでもよく、まず助動詞が表すことは何かを考えます。

助動詞には言わずと知れたcan、will、may、mustなどがあります。

これらは「できる」とか、「する意志がある」とか、「してもいい」「かもしれない」「しなければならない」という意味がありますが、これらが表すことは専門用語で「心的態度」と言うそうです。

心的態度とは、話者の心の持ちようのことで、助動詞は、話し手がある出来事や物事をどのような心持ちで捉えているのかを明示する単語とのことです。

訳を比較してみればなるほどです。

つまり「助」動詞って動詞をそういった心的な、心持ちを補助(補足)する単語という立ち位置なんですね。

具体的には、「予想」とか「願い」「意図」や「許可」を表現します。

そして現在の心持ちと強く結びついていています。

少し脱線しますが、ロイ先生は、助動詞が表す意味には2面性があり、それに対する「コア」となるイメージも紹介しています。

言語感覚がある人は無意識のうちにそれを感じているため、問題なく使えるのでしょう。

助動詞のコアと2面性
  • will:高い確率・可能性でそうなる
  • can:可能性
  • may:開かれたドア
  • shall:神の意志
  • must:絶対

ここでロイ先生は、これらの2面性を、訳し方や意味の違いから次のように説明しています。

WILL

表:「〜する(つもりだ)」という発言者の「意志」。

裏:高い確率で「〜である(になる)だろう」という発言者の「確信のある推量」。

CAN

表:「〜できる」という能力としての可能性。

裏:「〜かもしれない」という「可能性」

MAY

表:「〜するかも、しないかも」という選択の自由

裏:「〜しても、しなくてもよい」という許可

すでに覚えてしまっている身からすると、この辺りは軽く流せますが、そうでない人にとってはどうなんでしょうね。

助動詞の後に来る動詞が原形である意味

本流に戻って、次に注目すべき点は、上でも少し触れましたが、助動詞に続く動詞が、「原形」であるということです。

これが結構重要なんですが、ぼくらはそれを単なるルールとして習い、それが如何に論理的な構造であり、ルールであるかに関心を持つ人は少ないのではないでしょうか。

ここで再度注目したいことは、

「原形の動詞は事実を表しているわけではない」

ということです。

時制は助動詞が引き受けて、話者の主観を表明していると教わることもあると思いますが、少し上でも触れたように、細かく分解すると、「心持ち」があることは事実だけど、「動詞」に当たる動作は実現していないということです。

「〜だろう」とか「〜できる」「〜してもいいよ」という感情を抱いていることは事実なわけです。

これは次のような熟語でも似たようなことが言えます。

I want to eat sushi tonight.

という場合のeat が原形で、wantが時制を持っていて、現在形なので、「〜したい」という部分は事実です。

でも、食べ「たい」ということは、その時点では食べてませんよね。

実際にそのうち食べる保証もありません。

ということは実現してないのだから事実を表していないという考え方です。

そしてぼくが調べたところによると、心的態度である助動詞が現在形で表しているのは、現在の「評価」や「判断」ということになります。

つまり後続する動詞が原形である理由はこうです。

話し手が判断や評価を与えているできごと(助動詞の後ろの動詞)は、まだ現実時間に配置されていない動詞であるという構造になっているからです。

その動詞には時制が与えられていない、与えるわけにはいかないといえると思います。

単に時制化されていないできごと(動詞)の内容を表しているにすぎないのです。

つまり助動詞が伝える「意図」や「願い」、「予想」「許可」などを時間的な過去に持っていこうとするならば、「意図した」とか、「願った」「予想した」といった動詞を使わざるを得なくなるのです。

助動詞の時制

では、助動詞の概念を過去に持っていけないにもかかわらず、なぜ過去形があるのか。

willが未来を表すのなら、wouldは「未来の過去」?これはどういう意味になるのでしょうか。

最初に挙げていたモヤっと感のヌシは、こういった時制を無視したような助動詞の運用でした。

距離を置いた判断、別の言い方をすると、発言者か、「仮想」している、「丁寧」になっている、「控えめ」な表明をしている、ことを表しますよね。

それは時間とは関係ありません。

日本語で検証

少し考えてみてください。

例えば、mayやmightの日本語「かもしれない」を使って考えてみます。

上述の「東京に到着するかもしれない」を過去形にするとどうなりますか。

 

「彼は昨日、東京に到着するかもしれなかった」

 

と、しましょうか。

日本語として正しいですか。

自然に言うなら、

「彼は昨日、東京に到着するかもしれないと思っていた」

これでも「思っていた」のが誰かというのが曖昧なので、

「彼は昨日東京に到着するかもしれないと、私は思っていた」

このような日本語が妥当であり、これには「現在はそれを否定している」ことが暗示されています。

どういうことかというと、日本人が英語の過去形の部分を過去形にしようとしても、できないか、非常に特殊な状況を表すことになり、単純な過去形にシフトできないのです。

いやいや、

 

「彼は昨日、東京に到着したかもしれない」

 

が過去形の表現じゃないか。

当時のぼくはそんなふうに考えていたかもしれません。

それなら意味も通るし自然な文章です。

でもこれは、「到着した」という動詞の部分が過去形になっていて、かもしれないという助動詞に当たる部分は現在形のままじゃないですか。

つまり心的態度は現在のままです。

これは先ほどの文章の過去形の表現といえるのでしょうか。

mayをmightにすることは日本語の「かもしれない」を「かもしれなかった」とすることと違うんです。

だから、便宜的に助動詞を含む文章を過去形するには

助動詞+have+過去分詞

という型式を利用すると習いますが、実際には動詞の部分を過去シフトする方法を習うのであり、助動詞は過去形にしていないわけです。

特別なcould

そこへ持ってきてcouldに限っては、場合によってはそれだけで時間的な過去を表すこともあるのでややこしい。例えば

I could swim when I was five.

などと言えば、過去において能力があったことを表します。

過去を言い表せる理由が、「能力を表すcan は、心的態度とは言い難い」という見方があるからのようです。

そういう意味で例外、部分的に特別です。

たから、

I could swim across the river.

の場合、時間的な過去ではなく、仮想ですね。

「その時泳げた」といったように、一時の単発的な成功と言う意味にはならない。

それを表すには、

be able to swim

managed to swim 

といった動詞を使う必要があるのです。

つまり助動詞の過去形は時間的な過去を表さない場合がほとんどなんです。

ほとんどの場合、時間は関係なくなります。

”助動詞病”の予防策

ここまで見てきたように、助動詞を動詞の一種と思わないこと、現在形対過去形を、一般動詞のそれと同一視しないことが重要です。

繰り返しになりますが、「心的態度」である助動詞を過去形にしても時間的には過去を表せず、距離を置いた発言者の判断である「仮想」、「丁寧」、「控えめ」を表すのが英語なのです。

つまり現在形と過去形で全く別の意味を表す単語として認識すること。

唯一、couldは一部特別であることを肝に銘じること、それがぼくが思う予防策です。

canもcouldも頻繁に使う単語なので、助動詞にも時制があるものだと思わせてしまう元凶だとぼくは思います。

惑わされてはいけません。

助動詞という慢性疾患と患者力

以上、慢性的な疑問の溶解のきっかけになったのは西澤先生の動画でした。

あとは、自分で言うのも何ですが、「患者力」で、本記事の後半部分は自分で調べた内容が多く含まれています。

調べて行くと、この沼はまだまだ底に達してないようですが、この辺でやめておきます。

「正解を求めるより、英語は納得することが大事」というロイ先生のように、この記事が「正解」とは言いませんが、これで「納得」できる人がいれば幸いかなという感じですね。

今回、この記事のせいで、さらにこんがらがってしまった方、ぜひともセカンドオピニオンを受診し患者力を発揮してください。

今回、肝心の自分が「寛解」したかというと、まだ長年の思考の癖があるので、まだ誤用することはありそうですが、セルフメンテナンスの術が増えたことは確かですね。

まあ、はっきり言って助動詞のこういう所が気になる人はあまりいないと思いますし、日常のコミュニケーションで必須の知識ではありませんが、ぼくは正しい英語を使いたい、日本語と同じくらい正しいがどうかを判断できるようになりたい気持ちがとても強いです。

そのために時制を正しく使えるようになることにとても興味があります。

今回、ぼくは助動詞の時間的な方向についてマニアックに考えてみましたが、西澤先生はもっと実用的な話もしていますので、気になる方は是非見てみてください。

DIYが好きな自分にとっては、新しい工具を手に入れたような高揚感を与えてくれたYouTuberの西澤ロイ、イングリッシュドクターのご紹介でした。