前から書いてますが、我が家ではネスプレッソのコーヒーを愛飲しています。
使っているのはカプセルから抽出するタイプのコーヒー(今はヴァーチュオです)を飲んでいるので、言うまでもなく、使用済みカプセルというのが毎回残るんですね。
それを数年前までは普通のゴミとして捨てていたのですが、どうしてももったいなかったんです。
もったいない資源ゴミ
なぜかというと、ネスプレッソはそのカプセルにアルミニウムを使っているからです。
なんでアルミを使っているかというと、その風味を閉じ込める密閉性のためです。
互換製品はプラスチックとかなんですが、その密閉性能は全く違います。アルミ製カプセルに貼られたフィルムはずっとパンパンに膨れているんですね。
そして使うときにマシンにセットしてカバーを閉じると穴が開けられるのですが、その時にパーン!といい音がするんです。
密閉性がよいということは新鮮さを保つためということでアルミニウムを使用しているとのことですが、それを捨てているということには罪悪感というか本当にもったいないと思ってたんです。
リサイクルは面倒くさい?
それがここ数年前からネスプレッソはカプセル回収プログラムを始めてくれたので、使用済みカプセルを取っておいて店舗に持っていって回収してもらうことができるようになりました。
ぼくらからしたら、そういうシステムを確立してくれてありがとうございます、という感じなんです。
今は、そのリサイクルプログラムで持ち込むたびにポイントをためられて、一定数量たまったところで好きなカプセル1本をプレゼントしてくれるということになっているんですが、はっきり言ってぼくらは「プレゼントを貰えなくても持っていくよ!」って感じなんです。
そんなカプセル回収は店舗でしてくれるのですが、不思議だなと思ったのが、毎回持ち込んだときに「持ってきてくれてありがとうございます」とお礼を言われることです。
重いのをわざわざ持ってきてくれて・・・というのですが、ぼくらからしたら別に強制されているわけでもなく、もともとどこかで回収できないのかと思っていたぐらいなので、店舗で引き取ってくれるだけで嬉しいんです。
それに加えプレゼントもくれるなんて嬉しすぎと思っており、それを説明しても店員さんの様子をみると、納得されてないようで(という対応をするように接客マニュアルに書かれているのかな)、なんというかネスプレッソが申し訳ないことをしてお客さんに許しを得ているかのような反応なんです。
要は、消費者はプレゼントをもらえるというインセンティブを与えないとまだまだリサイクルをしてくれないと思われているってことですよね。
それってなんか残念な気がしませんか?
偽善者?ぶりっ子?おせっかいにはなりたくない
さて、そんな周りの価値観がはびこっているのであれば、おそらくこの場合ぼくらはまるで「いい人」になろうとしているように聞こえるんじゃないですか?
どうでしょう。
自分で言うのもなんですが、「いい人」ぶっているようにも見えるんですよね?
まあ、どっちでもいいんです。
もちろんいい人になろうという意識はなく、そう見えるようになろうということもないです。つまり人にどうみえるようになるかという気持ちでやっているわけではないということです。
リサイクルしたくてもできるもんじゃない
少し脱線する話に聞こえるかもしれませんが、ここ数年、このカプセル回収や他のリサイクルや健康に気を使った商品を購入するという姿勢を取っていますが、それはそういうシステムがあってやっと実現できることです。
自分がいくらリサイクルしたいと思っても、そういうシステムがなければリサイクルできないし、健康的な食料を欲しがっても、そういう商品を生産してくれる人がいないと買えないわけです。
そんな提供者がいてぼくらのような利用者がある程度いてやっと成り立つシステムなんで、ぼくらは結局の所そういうシステムを利用することで自分のリサイクルしたいとか、健康でいたいという欲求を満たそうとしているわけですから。
損得勘定や義務感とは違う何か
結局自分のためにやっている感じがあるんですね。
だからあまり大きな声で言うと、「なんだ、結局自分のためかい!」って思われるような気がするんで言いませんが、ネスプレッソの店員さんに説明してもああいう反応だったんで、どうやらそう思われる可能性はそれほど大きくないのかなという気はしています。
とは言え、そういう考え方が広まってくれたらありがたいという気持ちもあるんで、こんなところで細々と自分たちのやってることを紹介していますが、「みんなもやってー!」ということではなく、「やりたいなー」とか「やってみたいなー」と潜在的に思っている人がいたらそういう人のヒントにしてもらって、そうやって広まって行けばいいんじゃないかなと思っているって感じです。
まあ、リサイクルすることは自分のためと言っても、行き着くとこというか、究極の到着地はみんなのためになるということで自分本意ではないのかも知れません。
ただ、到着する可能性というか、その割合がそれほど大きくないだろうという予想があるから自分のためという目的に置き換えられてしまうということなんじゃないでしょうか。
いずれにしても、みんながおせっかいな気持ちを持たず、さり気なく自分の良いと思った環境改善活動をすることがやがて文化になっていく。それが重要なのかなと思いながら、今日もコーヒーを嗜んでいます。